『反ヘイト・反新自由主義の批評精神 いま読まれるべき〈文学〉とは何か』(寿郎社)発売および目次の完全版を公開!

 岡和田晃の最新評論集『反ヘイト・反新自由主義の批評精神 いま読まれるべき〈文学〉とは何か』(寿郎社)が発売となります。2008年から18年まで書いてきた「純文学」とポストコロニアルな問題を扱う評論を、現代日本の閉塞状況を少しでも打破せんとする視座から精選しています。

アイヌ民族・沖縄・原発などをめぐってSNSで欺瞞がはびこり、「極右」「オタク(萌え)」「スピリチュアル」な言説がもてはやされるなかで、気鋭の文芸批評家が放った渾身の〈一矢〉。
「文学界・思想界からの反響・反発が必至の〈禁断〉の文芸評論集。」
【編集部によるキャッチコピー】


 装丁は鈴木美里さん。昨年の『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』(アトリエサード)と対になる本です。2014年の『北の想像力』や『向井豊昭の闘争』、2015年の『アイヌ民族否定論に抗する』以後の仕事も収めてあり、私なりの責任を果たしたつもりです。分量に比して、価格をギリギリまで抑えてあります。刊行まで2年を要しており、こういう本はそうそう出せません。ご支援をいただけましたら嬉しく思います。
 本書の母体は2016年の第50回北海道新聞文学賞の佳作となった『破滅(カタストロフィー)の先に立つ ポストコロニアル現代/北方文学論』(幻視社)ですが、本格的な商業出版にあたり内容を半分近く入れ替え、まったく別物に生まれ変わりました。「〈世界内戦〉下の文芸時評」(「図書新聞」)および「現代北海道文学論 「北の想像力」の可能性」(「北海道新聞」)の収録は除いてあります。これらについては、別の本にまとめられればと思っています。
 タイトルも版元と相談のうえ、闘争的に刷新しました。ISBNは978-4-909281-12-8です。寿郎社への注文はすでに受付が開始しており、FAX011-708-8566 TEL011-708-8565 メールdoi@jurousha.com ツィッター@ju_rousha か@jyu6 までお申し込みを!



 フライヤーでは抜粋版の目次が公開されていましたが、以下が完全な目次となります。カッコ内は初出。柔軟な思考に訴えかける、コレクト・クリティークの復権です!

●はじめに


●目次


●1 ネオリベラリズムに抗する批評精神

・真空の開拓者――大江健三郎の「後期の仕事(レイト・ワーク)」(「未来」、未來社、2015〜16【2008】年)

・「核時代の想像力」と子どもの「民話」――『はだしのゲン』への助太刀レポート(『『はだしのゲン』を読む』、河出書房新社、2014年)

・世界の革命家よ! 孤立せよ!(「新潮」、新潮社、2015年)

・「歴史の偽造」への闘争――『日本人論争 大西巨人回想』(「時事通信」、2014年)

・文学に政治を持ち込む戦術(タクティクス)の実践――陣野俊史『テロルの伝説 桐山襲烈伝』(「すばる」、集英社、2016年)

高橋和巳、自己破壊的インターフェイス(『高橋和巳 世界とたたかった文学』、河出書房新社、2017年)

・破滅(カタストロフィー)の先に立つ批評――神山睦美『希望のエートス 3・11以後』(「季報 唯物論研究」、2013年)

・「近代文学の終り」と樺山三英「セヴンティ」――3・11以後の〈不敬文学〉(「未来」、2015年)

・選び取り進むこと――山城むつみインタビュー(「すばる」、2015年)


●2 ネオリベラリズムを超克する思弁文学(スペキュレイティブ・フィクション)

青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)(『社会は存在しない』、南雲堂、2009年)

・「饒舌なスフィンクス」からの挑戦状――青木淳悟『匿名芸術家』(「すばる」、2015年)

・『北の想像力』という巨大な〈弾〉(「朝日新聞」、2014年)

・『北の想像力』の試み――「仮説の文学」でネオリベに対峙(「週刊読書人」、2014年)

・『北の想像力』という惑星思考(プラネタリティ)――山林に自由存せず、から始まる〈北海道文学〉史の再考(「北方文芸2017」、北海道立文学館、2017年)

・「私」と〈怪物〉との距離――藤野可織の〈リアリズム〉(「早稲田文学」、2013年)

・日常の裏に潜む別世界――小山田浩子『穴』(「時事通信」、2014年)

・林美脉子という内宇宙(ドキュメント)(「現代詩手帖」、思潮社、2015年)

・「作者の死」、パンドラゲートのその先へ――林美脉子『タエ・恩寵の道行』栞文(『タエ・恩寵の道行』、書肆山田、2017年)

・文学による「報道」――笙野頼子『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』(「時事通信」、2017年)


●3 北方文学の探究、アイヌ民族否定論との戦い

小熊秀雄を読む老作家・向井豊昭を読む(「すばる」、2014年)

・夷を微かに希うこと――向井豊昭と木村友祐(「すばる」、2014年)

アイヌ民族否定論の背景(「東京新聞」、2015年)

・環太平洋的な「風景」を描いた民族誌――金子遊『辺境のフォークロア』(「時事通信」、2015年)

・私たちは『アイヌ民族否定論に抗する』をなぜ編んだか――岡和田晃×マーク・ウィンチェスター(「週刊読書人」、2015年)

・北限で詠う詩人たち、「途絶えの空隙」とそこからの飛翔(「現代詩手帖」、2015年)

放射能が「降る降る」現実を前に――小坂洋右『大地の哲学 アイヌ民族の精神文化に学ぶ』(「北海道新聞」、2015年)

・中央(ヤマト)の暴力(リズム)を掻き回(コヤッコヤッ)す辺境の言葉――向井豊昭『怪道をゆく』(「早稲田文学」、2015年)

・ノッカマップを辿り直して(「三田文學」、2015年)

・生きられる隙間を探せ――木村友佑『野良ビトの燃え上がる肖像』(「東奥日報」、2017年)

歴史修正主義に抗する、先住民族の「生存の歴史」――津島佑子『ジャッカ・ドフニ』(「すばる」、2017年)

津島佑子と「アイヌ文学」――pre-translationの否定とファシズムへの抵抗(『津島佑子 土地の記憶、いのちの海』、河出書房新社、2017年)

歴史修正主義と「マイノリティ憑依」を、ともに打破する言葉はどこか――教育者にして作家、向井豊昭の調査と思索、その原点(『アイヌ民族否定論に抗する』、河出書房新社、2015年)

・〈アイヌ〉をめぐる状況とヘイトスピーチ――向井豊昭「脱殻(カイセイエ)」から見えた「伏字的死角」(「すばる」、2017年)

・「文化振興」に矮小化される「アイヌ政策」を批判、表象と政治のねじれた関係を解きほぐす――計良光範『ごまめの歯ぎしり』(「図書新聞」、2016年)

・マイノリティ相互の関係史を資料と証言で掘り下げる――石純姫『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』(「共同通信」、2017年)

・江原光太と〈詩人のデモ行進〉――『北海道=ヴェトナム詩集』再考(「現代詩手帖」、2017年)

・江原光太と〈詩人的身体〉――郡山弘史、米山将治、砂澤ビッキ、 戸塚美波子らを受け止めた器(「現代詩手帖」、2017年)

・断念の感覚の漂着点――中原清一郎『人の昏れ方』(「文藝」、河出書房新社、2018年)

・異議を申し立てる文学――木村友祐『幸福な水夫』(「デーリー東北」、2018年)


●4 沖縄、そして世界の再地図化(リマッピング)へ

・沖縄の英文学者・米須興文の「二つの異なった視点」――主に『ベン・ブルペンの丘をめざして』収録文から考える(書き下ろし、2016年)

・移動と語りの重ね書きによる世界の再地図化(リマッピング)――宮内勝典『永遠の道は曲がりくねる』(「すばる」、2017年)


●あとがき


 この本は、昨今、きわめて珍しくなっている、ド直球での文芸評論ですが、同時に、現代社会の諸問題をを撃つことを目した、文学による社会批評の本(not「社会学」)になっています。
 補足しておきますと、社会学ディシプリン(色々ありますが、概して)では、「文学」的なアプローチは過剰に主観的だとして退けられる傾向があるように思います。そのような姿勢は採らないということですね。実際、私は時評で、社会学とされる仕事を「文学」的見地から評価することもしてきました。
 この本は巻頭に配置した大江健三郎論を皮切りに、いまの文芸誌に書いている日本作家を論じています。共通するのは、実力派の作家だということです。その内奥にまで踏み込み、いったいどのあたりに価値があるのかを掴みだし、提示してみせています。
 同時に、この本では、おそらく今の読者が知らないような詩人や、忘れられた作家も言及されています。なぜ言及されるかというと、端的に優れているからですね。それらを読むだけで、生きづらさ前回、圧倒的な重圧が支配する社会に対してのカウンターになるということです。
 もっとも、“いま、ここ”とはかけ離れているように見える作品を受容することこそが、オルタナティヴな生き方を示すことになる。これが「反新自由主義」に込めた意図です。原始共産制に立ち返れというのではない。私たちの内面すら管理し、規定し、蹂躙するような価値観から自由であれということです。
 版元の寿郎社は、北海道の出版社ですが、全国有数の気骨ある版元でしょう。反原発、反TPPをテーマにした優れたノンフィクションを多数、出しているところです。『朝鮮人アイヌ民族の歴史的つながり』、『近現代アイヌ文学史論』などのアイヌ関係でも知られます。
 おそらく、いま現場で社会運動に関わっておられる方々の多くは、かつての文学青年ではないかと考えています。文学と社会性が連続していた状況がありましたから。理由はさまざまですが、その扉が閉ざされてしまった。文芸ジャーナリズムの現場で、身体を張って書いていると、如実にそう思います。
 他方で、歴史の改竄、各種マイノリティへの差別は着々と進行し、現実は救いようもなく狂っているかに思えます。ストッパーになるはずの「左派論壇」での議論が、そこに刺さらないと思っている人も多いことを、私は知っています。だからこそ、一旦文学を経由するのが大事になる。そういうことですね。
 アイデンティティ・ポリティクスというよりも「経済」が大事、「天皇」を排すればヘイトはなくなる、とでも言いたげな言説があります。言わんとすることはよくわかるし、相応の意義もある。ただ、眼前の惨憺たる「文化」の汚濁を前に、なぜドブさらいを試みないのかと。誰もやらないなら私がやります。