サミュエル・R・ディレイニーの『ノヴァ』、『アインシュタイン交点』、『エンパイア・スター』、関連書としてJ・L・ウェストン『祭祀からロマンスへ』を読む。


▼でも、長くなりそうなので、このノートでは、ディレイニー作品に共通して抱いている感想めいたものを『ノヴァ』を中心に書いていこうと思う。


ディレイニーは60年代を代表する早熟の「天才」SF作家だが、いま読み直してみると、そのヴィジョンの審美的な次元におけるレヴェルの高さに、改めて驚倒させられずにはいられない。最近はスタージョンやディックをはじめとしたニューウェーブSF再評価の兆しがあるようだが、彼らが持つある種の「わかりやすさ」だけではなく、ディレイニーの作品に顕著な「眩惑性」そのものにも注意を向けてほしいものだ(とりわけいま話題の国書刊行会未来の文学』叢書にはぜひ、文学理論的に難解だと評判のディレイニーの『ダルグレン』や<ネヴェリオン>四部作を収録してほしいと思う)。


▼いや、ぶっちゃけていえば、以前『バベル-17』を単体で読んだ時にはさほどの感銘は受けなかった。読了後の第一印象は「敵のいないスペオペ」であり(もちろんこれは誉め言葉であるのだが、それ以外でもリドラ・ウォンお姉さまやブッチャー氏なぞは素晴らしいですよ)、いわゆるアンチロマンだと思っていた。だから、そこから深い読みへと誘われないでも、「この状態で充分幸せかも」となっていてしまったのであった。


▼しかし、未読本を整理していたとき『ノヴァ』を発掘して、読んでみてたちまち、そのぼんやりとした多幸感は激しい熱狂へと変化を遂げた。なぜならば、書かれている内容が<深淵と、深淵への風刺>>*1(cジャック・デリダ)そのものだったからだ。そして同時に、作品の総体がパッチワーク上に「美」を織り成している、その瞬間に気が付かされた。このパッチワークという表現はあまり適当ではないのかもしれないが、たとえば佐藤亜紀の作品から漂うような極めて端正で古典的な意味において「造形的」に作り出された類の「美」とは微妙に異なる、ということを言いたいがためにあえてそのような言葉を用いることにする。


▼そしてこの、類稀なる織物は当る角度を変えることによって異なる物語を生成し*2、さらにはそこから異なった音楽的な「色」が出てくるのだ。『ノヴァ』の主人公の一人マウスが、シリンクスと呼ばれる楽器を奏でるこのシーンが一番わかりやすい。

色彩がフーガ模様となってほとばしり、そよ風を取り込んだと見る間に落下して、遠くで鮮やかなエメラルドに、くすんだアメシストに変転してゆく。吹きすぎる風には、酢、雪、海、しょうが、けし、ラム酒、さまざまな匂いがみなぎっている。秋、海、しょうが、海、秋。そして海、海、さらに海がおしよせるなか、マウスの顔をほのかに照らすブルーのよどみから光がふつふつとわきあがる。ネオ・ラーガの電気じかけのアルペジオが、せせらぎのようにひびく。


▼同じように当る角度を変えると異なる物語が生成される作品としては、おそらくロブ=グリエ『ニューヨーク革命計画』、シモン『三枚つづきの絵』などとうまく対比させることができるだろうが、後者が読み手に想起させる映像がモノトーンであるとしたら、前者のそれはさながら色鮮やかなシュルレアリスティック・アート、更に突き詰めて言うなれば、マニエリスム絵画を構成する謎めいた美学に近い。読者はディレイニーが描き出す風景描写の、宙吊りにされた「色」使いの鮮やかさに打たれ、限りない深淵を前に、そこで言葉を失わざるを得なくなる。だが、ディレイニーは彼らを虚空へと置き去りにはせず、意味が醸し出す深淵の正体は実は深淵ではなく<万華鏡>であると、こっそり耳打ちするのだ。ひょっとするとこれこそが、ディレイニー作品が醸し出す居心地の良さの原因であるのかもしれない。

「おれたちはぶっとんでく船のなかさ、いいか、若いの。左手にはプレアデスの三百の太陽が、宝石をばらまいたミルクだまりみたいに輝いている*3。右手のほうは、なにもかも呑みこむまったくの闇だ。船がおれ、おれが船さ。このソケットで−」


▼それはさておき、『ノヴァ』はとても親切な小説だった。エース・ブックスというパルプ小説叢書出身のためか、表層に現れる物語において、ディレイニーの誘導はとても親切だ。最後の一文を除いて、深読みを誘う部分は意図的に飛ばすことができるようになっている。そして、飛ばすことができる部分としてキーポイントが明確に指定されているがゆえに、どこで「読者への挑戦」が為されているかの見分けが、同時に付き易くなっている。散りばめられた象徴の配置から浮かび上がってくる内容も、例えばセックスだとかタロットだとかと言う、美的な観点で理解できるものがほとんどで、イデオロギーな側面は少ないように思える*4。ただしネックなのが、物語の第一層が展開の速い冒険活劇であるせいか、「象徴」を内包している要素が、言葉のレヴェルで、ひどく凝縮されたものとなってしまっており、そこに根本的な理解を阻む壁があるように思えるのだ。翻訳ゆえの悲しさか。


▼だが、『ノヴァ』はユーザーフレンドリーな小説なので、まだそのあたりのハンディは少ないと思うのだけれども、その前年に書かれて見事ネビュラ賞を獲得した*5アインシュタイン交点』*6になると、もう、やりたい放題だ。完訳までに25年もかかったという、やや眉唾物だと思わせられる与太話も、やっぱ信じてもいいかな、という気分にさせられる。


▼さて、関連書として読んでみた『祭祀からロマンスへ』について一言だけ。『地獄の黙示録』のラストでカーツ大佐の書斎に置いてある三冊の本のうちの一つ(残り二冊は『金枝篇』と聖書)。T.S.エリオットの『荒地』の種本でもある。『ノヴァ』の訳者あとがきで参考図書として挙げられていたので目を通してみたのだけれども、『ノヴァ』の目指すところが<聖杯探究>にあるという深層の物語を考えるために役に立ちそうな本だ。と言っても<聖杯探究>という主題が、なぜ書き手にも読み手にも重要と思われるのか、ということを、根っこの部分で土俗性なものとの連関しているからだよ、と説くことで「納得」できるようにしている(「理論的に証明」はあまりしていない。ウェストンが扱う問題は精神文化の基底を掘り起こす作業で、そこからいつトンデモへと行ってしまってもおかしくのないものだから)だけなので、『ノヴァ』の攻略本を期待して読むと肩透かしを食らう。


▼というわけでまとまりもなく本ノートは唐突に終りを告げるが、ニューウェーブSFの人たちでほぼ唯一『スターウォーズ』を否定していないディレイニーって、なんかいいよね。

*1:『絵画における真理』の冒頭に記載されている言葉。デリダは大著の内容を、「これだけ言えば、もう充分である」とそんな具合に一言で要約してしまうのだ。

*2:ディレイニーは基本的に、いわゆるスペースオペラやヒロイックファンタジーの手法を取りながら、そのなかに象徴的要素を散りばめて、物語を深いレヴェルにおいて異なった角度から解釈できるようにするという手法を取る。

*3:有名なモチーフ。精液の隠喩らしい。すると闇のほうは言わずもがなですね。個人的には、意味が織り成すプリズムと解釈の迷宮との対比とも取りたくなる。

*4:これが『エンパイア・スター』だとかだとまた違ってくる。例えば山形浩生は『新教養主義宣言』の最初の論文で「知的な教養体系の再構築」を語るうえで、『エンパイア・スター』に登場する「シンプレックス・コンプレックス・マルチプレックス」という概念を引き合いに出す。

*5:このあたり、ニューウェーブ全盛期のSF文壇がいかに活気のあるものだったかがよくわかる。

*6:ディレイニー版『フィネガンズ・ウェイク』。このサイトhttp://homepage3.nifty.com/wooddoor/bookshelf/neta.htm参照。