昨年末、北米の先住民であるラコタ族(スー族と言った方がよいかもしれない)のアメリカに対する「独立宣言」が、主にWebを通して、密やかな話題として囁かれた。
さながら「帝国」のごとき破竹の勢い(なぜかわからないが、古代ローマ帝国というよりは、『スターウォーズ』に出てくる「帝国」に近いどちらかといえばフィクショナルなイメージがある)で世界を蹂躙しつつあるグローバリゼーションの波を、私たちは安易に否定し去ることはできない。
なぜならば、グローバリゼーションを否定するということはそのまま、私たちが普段享受している安寧なるテクノロジーや、飽食の生活を捨て去ってしまうことを意味するからだ。
経済的に比較的豊かとされる国が、反グローバリズムを謳う際に産まれる欺瞞のひとつは、主にこの点に宿るのではないか、と思ってしまう。つまり、「君はどこまで、今の生活を捨てるつもりがあるの?」と、内なるソクラテスが囁いてくる。その声にどこまで、誠実でいられるのか、という問題があるというわけだ。まあ、普通は捨てられないわな。私だってそうだ。
一方で、反グローバリズムという立場を、さながらナポレオン戦争やヴェトナム戦争期のパルチザンのごとき志向において選択した者たちは、「そうせざるをえなかった」がゆえに、時として極端から極端へと走らざるを得なくなる。
そこに介在する「切実さ」は、おそらく虐げられた経験を持つ者、もしくは激しく蹂躙された経験を持つ者にしか理解できない類のものであろうが、抱え込んだ「切実さ」が一回転してしまうと、その「切実さ」は、どこかハッタリめいた、シニカルな姿勢へと変貌してしまうのではないか。
現に、作家の宮内勝典は、「東京新聞」の連載エッセイにて、ラコタ族の件を、以下のように分析している(以下、宮内氏の許可を得て、転載しておく)が、私は彼らの姿勢に象徴される、現在に蔓延しているある種のシニシズムの一端を嗅ぎ取ってしまう。
惑星のネイティヴ
去年、クリスマスや忘年会で街中がにぎわっているころ、北米先住民たちがアメリカ合衆国に対して独立宣言をしたという知らせが飛び込んできた。ぴんときてネットの海で情報を漁りつづけると、やはりそうだ。先住民たちの指導者は、かつての私の友であった。一九七三年、ラコタ族を率いて二百丁かそこらの猟銃で反乱を起こし、独立宣言をした男である。長い獄中生活を終えて出所してきたころ、私たちは出会い、友となり、雪が降りしきる谷間の野営地で暮らしたりした。川まで凍りついていた。日々、その氷を割って、惑星のネイティヴの夢を汲むように冷たい水を飲んだ。
中米の熱帯雨林で独立闘争をつづけているインディオたちを支援するため、共にカリブ海を密航したこともあった。『ぼくは始祖鳥になりたい』という小説に出てくる「ジャスパー」のモデルとなった男である。悲しい諍(いさか)いがあって私たちの友情は壊れてしまったが、かれはまだ独立の夢をあきらめていなかったのだ。うれしく思いながら、かすかな変質も感じられる。
一九七四年になされた独立宣言は、銃弾が飛び交う雪の丘で死を覚悟しての声明であったが、今回はどこかしら政治的パフォーマンスではないかと思われる節がある。五つの州にまたがる独立国の国境も公表されている。むろん、アメリカ合衆国が独立を許すはずはない。可能性はほとんどゼロであろう。それでもかつての友は、時の流れに逆らい、グローバリゼーションに逆らい、世界最強の国に丸裸で挑みつづけている。そのドン・キホーテのような夢が痛ましく、たまらなくせつない。
(東京新聞・夕刊 1月18日)
さて、それではラコタ族の態度を深く理解するため、いまいちど宮内の創作姿勢を見直してみよう。
宮内はデビュー作の『南風』から、初期の傑作『グリニッジの光を眺めて』、そして近作の『ニカラグア密航計画』、『ぼくは始祖鳥になりたい』以降の作品において、一貫して、自然と人間の関係について、問い続けてきた。 『南風』を一読すればわかるが、おそらく宮内は、自然と人間が、完全に分かたれたという認識のもとに、小説の執筆を始めたのだろう。
ただし、ここでの宮内の姿勢は、ミシェル・フーコー的な「人間の死」の主張ではなく、近代知に取って代わる、より根源的な、それでいてオルタナティヴな価値観の模索という点であるところが、注目に値する。
例えば、宮内のほぼ全作品に共通している、恐ろしく鮮烈でありながら、印象派の絵画のような強烈なインパクトを読み手に与える情景描写の数々を見てみると、そのタッチの異質さに慄いてしまうに違いない。
最近、惜しくも夭折したアラン・ロブ=グリエは、サルトル流の実存主義の延長線上で、主体が「無」を受け入れるさまを、作品によって示した。
つまり、サルトルが、「思想」として、あくまでも政治的な問題系として「実存」を理解したことに対し、ロブ=グリエはあくまでも文学的=存在論的な問題として、神なき時代、「無」を受け止めたのである。現に、彼の『除くひと』では、無限記号のモチーフが執拗に反復され続ける。
そして、こうした、ロブ=グリエ的な視座という者は、宮内作品にもどこか相通ずるところがある。
だが、宮内が追求するのは、ロブ=グリエ式の原理的な「無」の地点に、単に意味づけをして済ませてしまうことではない。彼は異なる方法を選択する。彼が目しているのは、語りによって、書き割りがごとき自然に、ふたたび生の息吹を吹き込むことにある。それは、すぐさま政治的なメッセージとして適用可能な、ある種のアジテートを希求するものではない。むしろ反対だ。グローバリズムの波の下で、蹂躙され、虐げられつつありながら、それでいて本源的な「生」を享受しつつある者たちの「声」を伝えるということに、宮内は全精力を傾けている。
ここで注目すべきは、宮内が伝えようとしている「声」が、いわゆる「ジャーナリスティックな情報」とは、本質的に異なっているということだ。
異なった文化圏に同志が接したとき、コミュニケーションに必要な前提条件がすれ違うゆえ、会話が成立しない、といった状況が「ポストモダン」的な状況としてよく取り上げられる。
だが、反対に、生の切っ先、さながらナイフの刃先のようなエッジを生きている人々が、互いの相違点を意識し合いながらも、一瞬の交錯の後に、シニシズムを退け、互いが背負っているものの重さを認め合うという事態が、「ポストモダン」の到来によって初めて明らかにされるコミュニケーションの可能性の一端として提示されうる可能性もあるはずだ。
宮内が刻む言葉は、そうした一点にこそ照準を合わせ、彫琢を繰り返しているように、私には見える。つまり、安易な意味づけで満足することなく、「声」に宿る「切実さ」を、シニシズムに転化させることなく、「切実さ」のまま背負い続けること。そうした言葉のあり方について、宮内の言葉は希求を続けているようだ。
かような姿勢は、時に愚直で、時にはあまりにも素朴すぎるように思える。このような時代において、政治的な効果があるのかもわからない。だが、それでいて、(とりわけグローバリズムの下で)人間が、異なる文化と接する際に必要となるものの、どこか本質的な部分を突いているように感じられてならないのは、なぜなのだろうか。それは宮内の筆が、生の豊かさを示すことで、コミュニケーション断絶による痛みを、逆説的に感じさせてくれるからなのだ。
異文化と接触する際に、他者の「切実さ」を無視して、短絡的な「決断」を下してしまいそうになった暁には、『ぼくは始祖鳥になりたい』にてジャングルを川で下る際に主人公が見た、極彩色の光景を思い出すようにするべきだろう。
少なくとも、異文化のイデオロギーではなく、異文化が描いた情景そのものに、さながら「絵」を読むように目を向ける機会が、たとえ小説というミニマムなレベルにおいてであっても、もう少し増えてもよいはずだ。ラコタ族の動行については、見守ることしかできない。ただし、彼らの「声」を、なんとかして活かすべくつとめるべきではないのか。
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