あるポルノグラファーの死
今出ている『新潮』6月号に、浅田彰の手になるアラン・ロブ=グリエの追悼文「あるポルノグラファーの死」が載っていた。これがあまりに見事。『早稲田文学』復刊第1号に掲載されている「タキシードの男」的な典雅さはなく、あくまで下世話で週刊誌的な文章なのだけれども、その視点でしか見えないものがある。確信犯。
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ただ、浅田彰が気づいていないことがひとつある。
ロブ=グリエが意識的に演じている、「矛盾」を意識的に背負うやり方、つまりはアラン・ロブ=グリエという「固有名」へ寄せられる「期待」の感覚を攪乱していくやり方そのものが、「個」を抹殺しようとする現代(日本の)状況においては、おそらく成立しないということだ。
これはロブ=グリエも意識していなかったことである。本来ならば、『ニューヨーク革命計画』内に取り込まれてしかるべき事柄なのだが、なぜかMoneyの力によって、外へ這い出してきたというわけだ。
ロブ=グリエを読み替えるには、このことを忘れないのが何よりも大事なのではないか。
この件については、こちらでも考えている。