[アヴァン・ポップ]「新説国境論」


 『怪道をゆく』が好評の向井豊昭が発行し続けている手書きの個人誌「Mortos」。その最新号をご本人より送っていただきました。

怪道をゆく

怪道をゆく

 『怪道をゆく』は、正直、奇蹟的な内容の作品集でした。「リアリズムとは?」と悩んだことのあるすべての人(大げさな言い回しですが、本心です)に、一度は手にとっていただきたいと思っています。


 今回の「Mortos」には、最新の作品「新説国境論」と、「いのちの学校ごっこ」、そして、出発点とも言うべき「思想は地べたから」が収録されています。 「新説国境論」を拝読すると、ある種の原理的な可能性を感じました。


 シニシズムを越えるには、鉱物か植物になるしかない、という旨の言葉を、とある作家が言っていたのですが、僕はそれでは物足りないと考えています。鉱物というのは、基本的には、藤枝静男が『悲しいだけ』で描いた境地のことでしょう。


 僕は10代の頃から『方丈記』や『歎異抄』を読んでいた人間ですが、いちどそうした世界を経由しつつ、諦念を『悲しいだけ』の地点から、諦念とは反対の情動として燃え上がらせる必要があるのではないかと思っています。
 ただ鉱物として真空に遊ぶだけでは、現代では消費のスペクタクルによって、すぐさま忘却されてしまうのではないかと懸念するわけです。

 ある種、ユーモアを持って、それでいて切実に、前向きに「鉱物」たりえなければ、シニシズムを一瞬でも超克できないのではないか。そう、考えます。


 いわゆるポストモダンがいちばん問題だったのは、結局のところ、「国境」を攪乱したとしても、突込みが浅すぎたため、単なる攪乱だけに終わり、本質を見出すことができなかったところにあるでしょう。
 『アヴァン・ポップ』のラリィ・マキャフリィは、『PANIC AMERICANA』という巽孝之が手がけた雑誌のVol.12に掲載されたインタビューで、「モダン」と「ポストモダン」の区別の無用性について語っていますが、それはこうした攪乱についての批判と読むべきでしょう。

アヴァン・ポップ 増補新版

アヴァン・ポップ 増補新版

 ただ、「新説国境論」の描いた地平は、ポストモダン的になまなかな次元を超える「可能性」を示していると考えます。二元論を人間の精神によって超克するという、オカルトではない、〈文学〉の力を感じました。
 闘志とでも申しましょうか。

 「いのちの学校ごっこ」と「思想は地べたから」を併記させることで、こうした〈文学〉の力に確固たる裏づけが与えられているように思えます。


 「早稲田文学1」に向井豊昭が寄せた「青之扉漏」も読みました。
 「早稲田文学」の復刊号は、ロブ=グリエ特集はもとより、全体的に本当にレベルが高くて感心しました。
 なかでも作品は、メールというメディアを取り入れた小説としては斬新なアプローチになっているものと思います。メールの位相が、独特なものだったからです。
 

早稲田文学1

早稲田文学1


 ケータイ小説的な、なしくずしの「人間性の死」に僕はかなり絶望しています。
 しかし、この作品は、メール的な「どこから届けられるのかわからない言葉」が、それまでのナマの言葉(小説の言葉、詩の言葉)と絡み合うことで、見たことのない地平を拓いている。人間性の彼方を見据えているように思えたのです。
 この小説と相通じるものして、ラングドンジョーンズ『レンズの眼』という、メディアの可能性を拓こうとした野心作を挙げることができます。

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

 ただ、ラングドンジョーンズは80年代以降の世界的な文学的後退の煽りを受けて、筆を折ってしまいました。
 それもまた、ひとつのスタイルではありますが、同時に僕は、生の汚猥を積極的に引き受けて書き続ける、向井豊昭の方法をも尊敬して止まないのです。
 また単行本が出て、「Mortos」や、『早稲田文学』の作品がお目見えするようになるとよいな!