笙野頼子講演会〜「感情の本質、唯一絶対の他者」


 慶應義塾大学三田キャンパスにて開催された、巽孝之氏がコーディネーターをつとめる総合講座「愛とセクシュアリティ」に参加してきた。


 部外者の出入り自由、毎週異なる演者によって発表されている講座だが、先週6/3は笙野頼子氏が「感情の本質、唯一絶対の他者」という表題で語った日。期待に違わず非常に刺激的な講座であったので、その様子を報告しよう。


 そもそも巽孝之氏が笙野作品に関心を抱いたのは、93年頃、リチャード・コールダースティーヴン・ミルハウザー、スティーヴ・エリクソンなどといった新しい作家たちと笙野氏の作品が、辿ってきたルートは異なりながらも同質の問題意識があるということを見いだして、『アヴァン・ポップ』の提唱者たるラリィ・マキャフリィと引き合わせたことに端を発する。
 高度資本主義を、内在的な観点からアヴァンギャルドに批判した笙野氏の方法は、「サイバーパンク」が有した問題意識を継承しつつゲーム性と批評性を兼ね備えたリチャード・コールダーガイノイド3部作への「応答」として書かれた『硝子生命論』に継承され、傑作『金毘羅』で壮大に花開くこととなる。


 一方、笙野氏は『渋谷色浅川』に記したような、巽孝之氏・小谷真理氏ら、慶應関係の人々によって評価されたことをたいへん心強く任じているらしい。今回の出演を決めた理由のひとつに、こうした慶應の人々への「返礼」という側面があるのは間違いない。


 昨年、ワールドコン世界SF大会)「Nippon2007」での「アヴァン・ポップ」のパネルでは、『イラハイ』『熱帯』などアヴァン・ポップとしてしか表現できないような作品で知られる佐藤哲也氏によって、収容所文学の傑作『妻の帝国』が、「新しい教科書を作る会」的な薄汚さを有した保守化への空気への違和の表明のパフォーマティヴな実践といった側面を有して書かれたという経緯が語られたり、安部公房がSFに寄せた期待が、アヴァン・ポップのスタンスに通ずるものがあったりと、多角的な観点から「アヴァン・ポップ」が考察された。


 このパネルには笙野氏も参加しており、「アヴァン・ポップ」なる運動と自分の作品のスタンスが出逢った経緯に、必然性を認めていた。その確信に満ちた断言に、私は非常に頼もしさを憶えたものだったが、その確信の根っこの部分が、例えば『皇帝』などの初期作を読んでも、いまひとつ見えないところがあった。


 だが、今回、笙野氏は「愛」という、時には恥ずかしいものとして取り扱われがちなテーマを根幹に据えることで、アヴァン・ポップ性の出発点をラディカルなものとして位置づけたのだ。


 近作『萌神分魂譜』を書いたときに、笙野氏はオタクの言う「萌え」という概念を、記号化されたフェティシズムではなく、ゼロから「萌え出ずる」情動として理解していた。
 男性が好きか女性が好きか、一人でいるのがいいのか複数性を重視すべきかがわからない状態でありながら、拾って育て、ついにはそのために家まで買うようになるほどの「猫」への想いを通じて、真空から根付く「愛」の形として再定義した。


 こうした愛の形は、いわゆる近代的な「真理」としてではなく、あるいは柄谷行人がしたり顔で語る「世界宗教」でもなく、葬式仏教や鈴木大拙的な「禅」でもなく、『千のプラトー』でフェリックス・ガダリが語ったような、構造と決別したときに残る「生命」の本質として存在しうる。そう笙野氏は、『萌神分魂譜』を題材に(時には朗読を交えて)語った。


 そして、「個」としての「愛」は、市場経済に文化が蹂躙される(笙野氏が二冊の論争本と、小説やエッセイを通じて、10年以上「売り上げ文学論」に代表される「市場の抑圧」と戦ってきたのは記憶に新しい)のとパラレルな状態を意味する。

 
 近代女性性というフレームのみに囲い込まれない女性性、事物と「個」との習合性として語られる(オカルト的ではない)「魂」の問題、50代になるまで扱うことができなかった「遊郭」の問題、「唯一絶対の自己」であるがごとく「他者」を愛せる「赤子」の問題、フェティシズムに近い日本の土着信仰の問題、テクスチュアル・ハラスメントの問題などが次々と語られた。


 以上の問題と、社会的なものへの違和感として、『水晶内制度』が提示されたわけだ。


 「男がいない社会を描くことで男性を批判している」とラディカル・フェミニスト的に受容されることが多い『水晶内制度』という作品だが、同時に悪い女性について沢山書いているということを笙野氏はあえて説明する。
 原発問題だけではなく、介護・老後の問題をも視座に入れることで、経済・社会システムの全体像を提示する形の異世界構築ではなく、「人間性」の「国家」との対立項をピンポイントで露悪的な戯画化をもって描き、SF的なリアリズムにも繋がる包括性を持たせながら、一枚岩に陥りがちな宗教史や唯物論では収まりきらないものを描こうとしたのだという。


 こうして、笙野氏自身の口から、『萌神分魂譜』と『水晶内制度』の二作をリンクさせる形で、「愛とセクシュアリティ」の再定義とも言うべき興味深い提言が為されたのだった。


 私が笙野頼子を面白いと思ったのは、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたようなディストピア新自由主義経済と国家身体の問題に還元させたとも読める『水晶内制度』がきっかけだった。
 その後、彼女が社会システムの構造へ、『金毘羅』や『だいにっほん、おんたこめいわく史』、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』、『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』などの作品を通して、広く鋭くメスを入れるようになったのにもかかわらず、どうして『萌神分魂譜』のような、説話的な次元へ回帰したのか今ひとつ見えないところがあった。
 それゆえ、馬鹿正直にこのことを質問したが、実のところ、問題意識はいずれの作品も相通じるものがあり、半ば身体的に「あそこを書いたら」「こちらも書く」と言った具合に、機能性を有した形でテーマが生まれてくるのだという。


 それは、必ずしも相互補完的なものというよりも、例えば『金比羅』で「私」を書いたら、『萌神分魂譜』では「俺」というように、人間の「自我」の多面性をひとつひとつ埋めていくような形で書かれるものであるという。それで次は、「彼」について書きたいということだった。


 「ミシェル・ビュトールの『心変わり』という小説は二人称で書かれている。だから、書き手と登場人物と読者の距離の取り方が絶妙で、読者は人間と風景とを等価に見ることができる」といった具合に「自我」の位相はあくまで「人称」を通してしか語ることができないと、往々にして批評の文脈では解説されてきた。
 ただし、「愛」や『セクシュアリティ」を中核に据えることで、「自我」の多様性を、「自我」そのものの持つ根源的な執念めいた要素を殺さないような形で描き出すことは可能である。今回の講演で得られた新しい視座があるとしたら、まさにこの「自我」と「多様性」の結びつきであろう。


 笙野氏が擁護する「純文学」は自閉的なものとして語られがちだ。
 しかし、「アヴァン・ポップ」を経由し「自我」に新たな側面から向き合うことで、狭く見えた「文学性」なるものを、何でも放り込むことができ、それをまったく別なものとして吐き出すことのできるような、異化作用を有したブラックボックスとして再定義することは可能であるということが、今回の講演ではコンスタティヴかつパフォーマティヴに示された。
 聴衆として、実に実り多き経験だった。


追記:当日の模様が書き起こされて公開された模様です。
http://adr.s201.xrea.com/shono/panicame/p44.php

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