「蘭亭序」を通じて、文字を考える。

 先日のこと。
 恩師が上京してきたので、それに合わせて、江戸東京博物館で開催されていた「北京故宮 書の名宝展」へと出かけてきました。王羲之の「蘭亭序」を見に行ったのです。
 高校時代、「蘭亭序」の拓本をひたすら臨書したのも懐かしい想い出です。
 「蘭亭序」は優美で、そして明澄。一言で言えば、雅趣に溢れていました。それが、他の作品との比較ではっきりとわかり、余裕のなさから筆を握らなくなって久しい身にも、よく理解できた次第です。

 江戸東京博物館のサイトでは、展示内容の一部の写真を観ることができます。

 この展示会ではあまり話題になっていませんでしたが、王羲之のほかには顔真卿が見られたのも眼福でした。この書ではありませんが、確か別のものを臨書したことがあるのです。

***

 ここでふと「文字」というものについてつい夢想してしまいました。
 中島敦に「文字禍」という有名な短編があります。ここで謳われるものは、「歴史があるのか、それとも文字があるのか」という素朴な、しかし極めて本質的な問いかけでした。こうした中島の問題意識は、洋の東西を越え、たとえばホルへ・ルイス・ボルヘスや、ミシェル・ビュトールなどにも共有されていると言えるでしょう。

中島敦 (ちくま日本文学 12)

中島敦 (ちくま日本文学 12)


 しかし、こうして過去の名筆を前にすると、ああ結局のところ、歴史には文字しかないのだな、と感じずにはいられません。
 つまり、文字からしか歴史は浮かび上がらないと思ったのです。二者択一は不可能であり、両者は極めて強固に凝集している。その意味で傲慢にも、中島の問いがひどく野暮なものと思えて仕方がないのでした。


 18世紀の美学者ヘルダーから、20世紀の哲学者ラカンが記した『エクリ』の序文に至るまで、西欧文化圏での漢字幻想は根強いものがあります。
 しかしながら、当の漢字文化が表現した美の最たるものである書碑を前にすれば、彼らは実のところ何もわかっていなかったのではないかという、背筋が寒くなるような感覚に囚われざるをえなくなることがままあります。


 ヘルダーもラカンも、漢字に意味や症例を見出そうとします。
 ですが僕は、書道芸術というものは、形から生まれる優美さが意味に優先せざるをえないのではないかと思うのです。それは本質的な話であるがゆえ、大事な意味があるものであれば、盛り込むのに必要な器に、相応の美が宿らねばならないとされることになる。
 かつての中国では、王羲之の筆法で書かれていなければ、どんなに優秀な回答を行なっても科挙の試験では落第させられたと言います。事の良し悪しはさておき、文字と書の関係性が、かように理解されていた時代は、確かに存在したということでしょう。


 これをデリダが『絵画における真理』で提示する「パレルゴン」(我々は絵ではなく、絵についた“額縁”[に代表される権威性]を見ているというもの)の問題と一緒にしてはいけません。
 なぜかというと、文字は額縁であると同時に、既に強固な意味性を孕んでいるからです。おそらくは絵画で描かれたものと額縁との関係性よりも、書のフォルムと意味性の間柄のほうが、はるかに距離が近しい。 逆に言えば、そう簡単に両者を解きほぐすことなどできないと思うのです。


 書としての「文字」にはアイロニーの入る余地などありません。書の大家が、ほぼ例外なく素朴なのも、こうした明澄さに依拠しているのではないでしょうか。その明澄さの裏には、ほとんど数理的なまでのきめ細やかさがあります。
 僕が「蘭亭序」を臨書していたときは、批評意識など働かせようがなかったけれども、展示会で並べられてみると、いかに王羲之が優れた「雅趣」の持ち主だったかがよくわかるという次第です。


 18世紀の美学者レッシングは『ラオコオン』で小説の「見るべきポイント」を語る際、ホメロス叙事詩を例に出して、叙事詩における「動き」の再現性に目を向けよと述べています。これが一方の軸であるとしましょう。
 もう片方、すなわち書に代表される意味の明澄さ、凝集性は、いかにも語られる機会が少ないように思えます。
 書道に必要な頭の使い方は、例えば物を読むときなんかとは完全に違います。独自の呼吸、集中力、みたいなものが大事になるのではないかと思います。
 そもそも一字間違えたらやり直しなのですから、勢いを確保することが必要になる。
 だから書道はある意味スポーツであるのが事実であれば、書が心を映すということも真実ではないかと考えます。ものを書くという行為を通じて運動性を技術に結集し、書という形象へ閉じ込める必要があるからです。
 だから、古代中国の書の名家には武官が多いのも、故なきこととは思えません。現に顔真卿は武将でした。


 優れた書には、躍動感というか身体感覚が存在します。
 こうした言語化しづらい、文字の、ひいては言葉に宿る「身体感覚」というものを、より拡充して理解すること。そうした方向性には、まだ可能性があるのではないでしょうか。その可能性については、先日書いた大久保そりや論、ひいては佐藤亜紀の『天使』を通じ、考えていきたいと思っています。

天使 (文春文庫)

天使 (文春文庫)