「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」についてご紹介(その2)


 いよいよ明後日です。それでは、11月7日の第7回文学フリマのB-15にて発売される〈幻視社〉3号掲載の批評文「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」について、前回のエントリに引き続き、もう少し詳しく紹介しましょう。


 「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」といっても、単なるマニフェストの提示ではありません。
 むしろマニフェストを教条(ドグマ)化しないために、本稿はスペキュレイティヴ・フィクションのひとつの形を、具体的な作品の分析を通じて解析していきます。ただし、私はスペキュレイティヴ・フィクションの全体像を描いたり、カタログを創ったりなどということはしていません。
 今回の批評においては、あくまでも「スペキュレイティヴ・フィクション」の外郭へと近づいて行くための思考の過程をひとつ、提示したに留まっています。
 しかしながらこの解析は、従来の文芸誌ではおそらく見ることができない、独創的なものになったと自負しています。


 基本的に、文学を読むには特定の文脈、あるいは前提となる共通認識(コード)が存在します。特に文芸の世界や思想の世界においては、各々の雑誌がそのコードを形成している側面が強いように思えます。〈文学界〉には〈文学界〉の、〈SFマガジン〉には〈SFマガジン〉の、〈GAME JAPAN〉には〈GAME JAPAN〉のコードがあるというわけです。


 イベントにもまたコードがあります。文学フリマには文学フリマの、ポエケットにはポエケットの、SF大会にはSF大会の、JGCにはJGCの、コミックマーケットにはコミックマーケットのコードがきちんと存在します。
 私たちが不特定多数に向けて言葉を投げかける際に、まず意識させられるのはこのコードです。もっと流通した言葉で言えば、「雰囲気」あるいは「空気」のようなものと言えるかもしれません。
 特に日本においては、「空気」の果たす役割というものは非常に大きく、多様化した人間が互いに意見を言い合ううえで、それらを摺り合わせる前提として「空気」を読む能力が求められます。


 しかしながら、また一方で「空気」というのは曖昧なものです。
 そもそも具体的に言語化できないから「空気」と呼ぶしかないなのでしょう。もちろん、「空気」を読むことは大事です(私はエアーリーディング能力が欠落していると、よく怒られます……)。社会人として生きるうえで、無用な衝突を起こさないために「空気」を読み、相手を慮るということは、この寒々しい時代にせめてもの思いやりを示すという意味で非常に重要ではないかと思います。ですが、一方で、「空気」を読むことが、過剰に重視されすぎているきらいがあるのもまた事実です。
 このあたりは、同人誌「筑波批評」にゲームに関する批評を寄稿しているという高橋志臣さん(id:gginc)が、『ロジカルハラスメント、略して「ロジハラ」』という興味深いコラムを書かれていますので、ぜひご覧になってみて下さい。とりわけ最後のパラグラフは痛快です(笑)


 さて、「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」の第2章より展開される本論の部分は、ぶっちゃけた話、まったく文学フリマの「空気」を読んでいない仕様になっています。色気もなにもありません。
 なにしろ、テーマは〈石〉なのですから。
 前回の紹介で、「私たちはもはやイデオロギーを信じることができない」と書きました。では何が書かれているのか?そうです。この批評文には〈石〉について書かれているのです。

     
 ひょっとして、呆気に取られた方がいらっしゃるかもしれません。しかし、思い出してきて下さい。イデオロギーは所詮、観念です(「観念」=「イデア」が語源なのですから、当たり前ですが)。実体がありません。
 観念と実体との交点を追究していくと、観念が具体的に形をとったものを追い求める形になっていきます。頭のなかのソクラテスが理想を囁き、プラトンがその言葉を書きとめる。しかし、言葉の発する意味が、特定の方向性を意味するのではなく、言葉そのもののまま「もの」として固定化していくと、「もの」はそこにあるだけとなり、それ自体の意味を失なう。その究極の形が〈石〉なのではないかと思うのです。つまり凝集された「観念」の象徴として、〈石〉が提示されるわけです。


 それゆえ、観念の操作を通して、物理的な現象を操作しようとした錬金術において、すべての触媒となることのできる〈石〉=「賢者の石」が鍵となるのは偶然ではありません。
 また、20世紀文学の流れのひとつであるモダニズム、その延長線上に位置するヌーヴォー・ロマンの伝統を引き継いだ視座で、近代化する母国の様子を描くと、それがリアリズムではなく「魔術的リアリズムマジック・リアリズム)」としか呼ぶことのできない相貌を呈することを明かし出したガルシア=マルケスの『百年の孤独』の序盤で、いかさま師メルキアデスの「賢者の石」が重要な位置を占めるのも、ある意味必然とも取れるところがあるからです。


 コミックでも、つげ義春の『無能の人』を思い出してみましょう。『無能の人』では、ほとんど無職に近い「石売り」が作品の中心となっていました。
 昭和の多摩川を背にした寂量感と、ほとんど「賽の河原」を思わせる景色が、〈石〉という、何をも意味しない、凝集された観念ともいうべきものの存在感を、否応なしに明かし出していました。
 そういえば、ある国の国歌にも「さざれ石」なんて出てきましたね。
 

 そこで今回は、〈石〉について考えてみようという次第なのです。もちろん、〈石〉というのは出発点にすぎません。具体的にテクストを追っていき、観念の凝集たる〈石〉が、いかなる変遷を遂げるのかを探って行くわけです。
 ちょっとわかりづらいでしょうか。
 批評の本文から引用すれば、こんな形になります。

二、〈石〉の凝集性


 本稿で、思弁性復権の鍵として語られるのは、九〇年代に書かれたスペキュレイティヴ・フィクションの傑作、奥泉光の『ノヴァーリスの引用』だ。
 それは、奥泉光が、この作品を契機としてふたつの文学賞を受賞し、文壇に確固たる地位を築いたからでも、いわんや同一の主題を引き継いだとされる『葦と百合』にて、ミステリ畑の評価をも与えられるようになったからでもまったくない。そのような評価軸とはまるで異なる観点から、この『ノヴァーリスの引用』は抽出された。『ノヴァーリスの引用』は思弁性豊かな小説である。が、その行き着く先をイデオロギーの発露ではなく〈石〉に漂着させるところが、新しい。
 かつては大いなる異物のごとく思われていたものの、今は半ば忘却されつつあるこのテクストが、〈石〉という非常な重要な問題系についてこのうえなく深く追求したテクストであるということはあまり知られていない。
 本稿では、奥泉本人へ一切の感情的な転移を伴わずして、『ノヴァーリスの引用』のテクストへと接近してゆくことになる。
 だが、奥泉で〈石〉と言えば、まず『石の来歴』を語らねばならないのではなかったか。現に『石の来歴』にて、奥泉がこの国での最も著名な文学賞を受賞した際、少なからぬ読者は、奥泉の手法に、保守的な何かを見取っていた。多くの批評家は、『石の来歴』について手際よくまとめることで、何かを語ったつもりになっていた。
 奥泉のテクストは、極めて周到に書かれていた。仮にその手法を、新たな観点からドストエフスキーラブレーを論じたさる批評家バフチンに倣い、さながら交響曲がごとき連関性を有した「ポリフォニー」的なものだと名づけようが、はたまた所詮は加速度的に進行する資本主義のなかでの「浸透と拡散」に過ぎないと断じようが、両者の間に差異はない。
 すなわち、『石の来歴』の中心として描出される「鉱物」としての〈石〉は、思想の出発点であり、同時に到達点でもある。〈石〉は観念の凝集にほかならず、そこで時間は静止している。〈石〉は永遠の現在を象徴し、存在そのものによってそのことを証し立てる。それゆえ『石の来歴』の題にそのまま表されている〈石〉の来し方行く末は、実のところ答えを出すことの適わない謎として立ち塞がるほかないのである。
 こうした〈石〉については、秋山駿が思想の原点とし、崩れ落ちそうな自己を限りなくミニマムな目で見つめるような「舗石」としても、あるいは安部公房が言うような砂礫だとしても、その特性を充分に語ることができているとは言えないだろう。『石の来歴』に登場する〈石〉は、あくまでも精錬前の鉱物、すなわち原石であり、過剰なまでの凝集性をその一身に引き受けたものであって、同時に凝集性以外の何ものをも意味しない。
 かような〈石〉は、例えばアーサー・C・クラークの『二〇〇一年宇宙の旅』に登場するモノリス、あるいは奥泉自身の作品においては『モーダルな事象』に登場する「ロンギヌス物質」など、多様な相貌を取るが、意匠は異なりつつも、その本質は同じものを意味している。それゆえ、〈石〉に何らかの隠喩を読み取ってしまう者は、反‐近代、保守回帰の象徴として〈石〉を理解することとなる。
 その流れで言えば、奥泉の『グランド・ミステリー』は、結局のところ福井晴敏の『終戦のローレライ』の裏面と、何ら変わらないものとなってしまうわけだ。ただし、こうして短絡的に〈石〉の特性を理解しようとすることは、むしろ作品に篭められた語りの詐術に嵌っているだけではないのか。
 すなわち、〈石〉に保守性を見出すということは、『石の来歴』なり『グランド・ミステリー』なり『モーダルな事象』なりの推理小説的構造が目指すものを読み解いたつもりでありながら、その実、もう一段高い観点から、作品が志向する陥穽に、意図して落とし込まれているのではないだろうか。
 実際、湾岸戦争ニーチェを中心に用い、さらには柄谷行人が問うた「文学者の政治参加」を中心的なモティーフとした奥泉の『バナールな現象』を参照すれば、奥泉作品が、メタレベルにおいて統制する原理原則にさえ、強い抵抗の意志を内在させているということがよくわかる。いやむしろ、〈石〉はさながら結石のように、統制的な理念に対する「異物」として機能することを目されていたのではないのか。



三、〈石〉の構造


 そもそも奥泉は繰り返し、「近代文学」の帰結としての自然主義リアリズムと、冒険小説やミステリ・メタフィクションを多用する自らの手法との差異を強調してきた。ただし、九〇年代以降の高度資本主義の急激な進行(いわゆる「ネオリベ化」)に伴い、「作品」よりも「作品」が引き起こす「現象」そのものへ注意が向きつつある現状において、こうした差異は、自然主義的リアリズムというフレーム内に囚われたもの「でしかない」と理解されるようになりつつある。すなわち〈石〉は認識に入り込む固定化された異物としてではなく、あくまでも路傍の石ころとしてしか認識されなくなってきているというわけだ。
 現に、文芸誌的な空間に限ったとしても、どれだけ奥泉の目したものが、批評的な文脈において共有されていると言えるのだろうか?
 かような風潮において『ノヴァーリスの引用』は、おそらく最も否定されるべき作品であるだろう。一八世紀から連綿と続くドイツ・ロマン主義の文脈を過剰に意識し、それを保田與重郎が辿ったような日本浪漫派的な超越性の志向へと結びつけることを意図的に拒否しながら、『ノヴァーリスの引用』のテクストは、〈石〉を媒介物としてドイツ・ロマン主義的な構造を意図的に浮き彫りにしてみせる。
 『ノヴァーリスの引用』はその作中において、ドイツ・ロマン主義の代表的な思想家にして「魔術的観念論」を提示したとされるノヴァーリスの言葉が孫引きという形で周到に提示される。が、そこに現れる「思想とは理性的な夢である」という文句についてテクストは、ノヴァーリス自身の詩篇『夜の讃歌』を援用することで、〈石〉を夢に、さらには死へと近づけていく。


 夜の魅惑、死の魅力を謳い上げるノヴァーリスは、しかし生を否定するのではない。むしろ生の徹底的な肯定から死への接近がはじまっていると言ってよいのではないか。とは進藤の解説であるが、少なくともノヴァーリスが、昼と夜、光と闇が交錯する薄暮の場所にあって、両者を見据える者であるのは進藤の言うとおりであろう。近代人は「私の死」の事実の前に立ち竦む。あるいはそれに代置される、愛する者の死の現実に脅かされる。死の概念に何万言を費やし、死の意味を説き、たとえば死が生を輝かせるのだと言ったところで、私の死の虚無、愛する者の死の苦痛は癒されることはない。自我を無限に拡大し、生をぎりぎりまで拡張しようとしたロマン主義にとってこそ、死は最も恐るべき何かであったはずだ。だからこそ詩人の想像力は死の領域へと、絶対に到達不可能な彼岸へと翼を伸ばそうとする。死の空虚を言葉で満たそうとする。(『ノヴァーリスの引用』)


(……)

 〈石〉について考察するにあたり、奥泉光の『ノヴァーリスの引用』へと到着しました。
 この『ノヴァーリスの引用』、私はとてつもない傑作、それこそ90年代以降を代表するフィクションのひとつに挙げてもよいくらいだと思っていますが、よくできたミステリ風純文学の佳品、以上に思われていない節があります。
 そこで本稿では、『ノヴァーリスの引用』を、うわっつらではなく、深い部分からガッと切り込みます。この切り込み方には、僭越ながらちょっと自信があります。
 そうして、観念の凝集としての〈石〉が、最後〈結晶〉として花開くまでを丹念に追いかけていくわけです。


 ポストモダン哲学の文脈を絶対視した従来の批評を読み慣れている方には、多少、戸惑いを覚える部分があるかもしれません。(もちろん、私は普通の批評も書くことができます。おためしとして「Speculative Japan」に発表した『「共産主義的SF論」あるいはドゥルーズになれなかった男』をご覧下さい)
 しかも、考察のために援用される思想系のテクストは、ほぼ19世紀以前のものになっています。


 しかしながら、21世紀に生きる私たちは、技術の進化に驚きながら、ほとんどがいつのまにか状況に流されてしまいがちになっている面が否定できない気がします。そうしが現状において、近代思想の源流にいったん遡り、その視座から、20世紀と21世紀を結ぶ鍵となるテキストを追いかけていくことで、「小さな世界」同士の「政治」に終わらない、原理的な視座を提示しようというのが、「スペキュレイティヴ・フィクション宣言、あるいは〈石〉と〈結晶〉についての試論」の意図するところなのでした。
 以下、本稿で読んで行くテクストの一覧を列挙していきます。どうぞ、このテクストを見て、本稿の内容をあれこれ想像してみて下さいませ。
 文学フリマならではの、ラディカルかつアバンギャルドな批評をご堪能下さい!

ノヴァーリスの引用 (集英社文庫)

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石の来歴 (文春文庫)

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ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念 (ちくま学芸文庫)

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ラヴクラフト全集〈6〉 (創元推理文庫)

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クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ)

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ノヴァーリス全集〈2〉

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田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

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無限,宇宙および諸世界について (岩波文庫 青 660-1)

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ブルーノ (1955年) (岩波文庫)

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結晶世界 (創元SF文庫)

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ソラリス (スタニスワフ・レム コレクション)

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レンズの眼 (1980年) (サンリオSF文庫)

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