明治大学公開講義について

 佐藤亜紀氏の明治大学公開講義に参加してきました。
 これは明治大学で行われている、(芸術の)「表現」を主題とした無料講義。今年で3年目。
 以下のリンク先に、過去の講義録を公開されている方がいらっしゃいます。

http://sites.google.com/site/ooarikuifc/Home/satou-aki-meijidaigaku-shougakubu-tokubetsu-kougi-kougi-roku


 ジャンルを問わず「表現」の在り方に関心のある向きには非常に刺激になるので、私はできるだけ参加するようにしています。


 ※ちなみに、この前身の講義が『小説のストラテジー』(青土社)にまとめられています。専門的な知識は特に必要としないので、私のブログに来ておられるRPG畑の人にもぜひ読んでいただきたいと思います。「R・P・G」誌4号のコラムでも、参考文献に挙げました。
 

小説のストラテジー

小説のストラテジー


 それでは以下、どのような講義であるのかということについてのノート的な概説になります。
 主に批評畑の方向けの記事のつもりであるため、話の抽象性を上げざるをえないので、どうしても文体が硬くなってしまいますがご容赦下さい。


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 明治大学の公開講義は、『小説のストラテジー』の事実上の続編的な性格が強いのだけれども、中心に扱われるのは「表現」、より学問的な言い方を取るならば「美学」である。
 哲学や文学に関心のある方(あるいは囓ったことのある方)であれば、「美学」というのがいかに困難な学問であるのかをよく知悉していると思う。人の価値観の根底を形成するものでありながら(あるいは、それゆえに)、「美学」というものは、どうしても理論的には語りえない領域に位置せざるをえないからだ。
 そのため学問的なアプローチにおいては、カントの『判断力批判』などといった哲学の理論を援用したり、作家の生涯により添って伝記的な方法を取ったり、テクストの変容を愚直なまでにに追いかけたりといった、実に苦しい手法を経ることで、なんとか「美学」が成立する土壌を浮き彫りにしようという試みがなされてきた。


 この種の困難を乗り越えるためだろうか、この公開講義では絵画や映画といったヴィジュアル的な要素を駆使し、「表現」の変容を観念だけではなく、具体的な形としてどう現れているのかを捉えようとさせるところに面白さがある。
 だが、それだけではない。「表現」を語るにおいて、「表現」を成立させるための基盤となっている社会的な情勢の変化、そしてその変化によって剥き出しになった主体と世界との間に広がる断層についての考察までもが、この講義では射程に入れられている。
 断層の具体例として提示されるものは、ナポレオン戦争であったり、二度の世界大戦であったり、9.11の同時多発テロであったりするのであるが、こうした個人と世界との間の絶対的な差異を示す断層を考察することによって、近代以降の表現というものが、いったいいかなる位相において可能となるのかを探究するというわけだ。


 この講義に集まっている人たちは主として実作についての関心を基盤にしている人が多く、(質疑応答などを聞いていると)さほど理論や、創作を可能にする工学的な問題系(いわゆる「フレーム」)へ関心があるようには見えない。だが、理論やRPGのシステムに象徴されるような「フレーム」へ少なからず関心のある、私のような人間にも楽しめるところは多い。
 特にフーコーレヴィナスといった、いわゆるフランス現代思想の哲学者たち、あるいはアガンベンやポール・ド=マンといった、フランス現代思想の衣鉢を継いだとされる批評家たちが理論的に追究している主題を、この講義では裏側から、実作に即した立場を軸に追っているからだ。そのため、私のように哲学的な素養が乏しい人間でも楽しむことができる。
 念のために断っておくが、佐藤氏がフーコーを種本にしているなどと言いたいのではない。それに、おそらく佐藤氏はレヴィナスアガンベンへさほど重きを置いてはいないのではないかと思う。ただ、スタイルが違うフランス現代思想の哲学者たちと佐藤氏とが、共通の位相を問題視しているように見えるところが実に興味深くある。それは一言で言えば、近代の国民国家的なものの成立に対する問題意識だ。



 ある意味で、創作とは卑怯な行為である。理論や現実に存在する矛盾を、いともたやすく創作行為を通して止揚させることができると見なされがちだからだ。
 だが、この講義を通すとそうではないことがわかる。佐藤氏は毒舌で知られている。彼女のウェブサイトやブログを読み、不快感を覚えたという人を私は少なからず知っている。私とて、彼女の意見を隅から隅まで受け入れるものではない(例えば佐藤氏のトールキンについての意見には、贔屓目を外しても首をかしげざるをえない)。その忌憚なき物言いを、ある種の悪癖と見なすこともできるだろう。だが、この講義を聴けば、その毒舌が野放図な放言の領域に留まるもののみならず、自らのスタンスを貫き通すという真摯さに端を発していると見ることもできるようになるのもまた事実だ。


 今回の講義ではゴヤエゴン・シーレの絵画、チェスタトンジョナサン・リテルの小説、大野晋丸谷才一の対談、『カンディード』、さらにはシュトックハウゼンの言葉や今年度初頭の代々木公園での炊き出しなどを例に出すことで、言葉と物とがいかに乖離しているか、さらには世界の不安定さと、不安定さによって剥き出しにされる「生」の位相についての考察がなされた。
 そこでは、表現行為を通して「剥き出しの生」(アガンベン)を止揚するための(いわば「癒し」としての)「表現」ではなく、あくまでも個人と世界との断層を見据えることで、「剥き出しの生」がいかなるものであるのかを徹底して「表現」の観点から見ることが要求される。
 佐藤氏はいわゆる新左翼への嫌悪を隠さない。しかしながらこうした、個人と世界との乖離を意識し、「表現」を通してその深淵の正体を少しでも露わにしようとする有様は、どことなくマルクスの『資本論』の初頭で説明された「命がけの飛躍」といった姿勢を連想させる。佐藤はマルクスに一言も言及していないし、マルクスにとって極めて重要な1848年革命に対しても否定的な見解(というよりも、マルクスとは異なる意見と言った方がよいか)を有しているだろう。にもかかわらず、近代に向き合うためのアプローチとして、両者の差異を考えておくことは無駄ではないと思うのだ。


 「神の見えざる手」という言葉に象徴されるような、アダム・スミスなどの古典派経済学、あるいは国家による利子率や貨幣の流通量の統制を基盤としたケインズ経済学などとは異なり、マルクス主義経済学では資本を形成する貨幣の在り方が哲学史的な文脈から考察される。そして、マルクス主義経済学の屋台骨である『資本論』においては、価値形態論という考え方が説明される。
 価値形態論とは、ごく大ざっぱに言えば貨幣と商品との関係性を示す考え方だ。貨幣は商品と交換する権利を有するが、一方で商品は貨幣と交換する権利を原理的には有していない。
 貨幣という抽象的な媒介物を経て商品をやりとりするというのは、貨幣をやりとりする両方の側、お互いに信用がなければならない。いわば、信用を担保することをもってはじめて「売る-買う」といった関係性は成立する。
 部族社会のような互酬性を主とした社会においては、こうした「信用」の交換同士が暗黙の前提とされているが、異なる文化同士においてはそもそも「信用」が成り立たない。
 それゆえに、貨幣を通じた「売る-買う」といった関係性が成立するかどうかは、そのまま主体と他者との関係性が成り立つかどうかということをも意味する。だからこそ、それを「命がけの飛躍」とマルクスは呼んだのだ。


 だが、マルクスのアプローチは「美学」を拒否する。「美学」は本質的に論理をもって伝達することは不可能なものであり、感性を通じて理解される。だからこそ「美学」は共同体を構成する理念となり、「美学」を共有できないものは排除されることになる。だが、それは「命がけの飛躍」を前提としていない。
 スターリン麾下のソヴィエトが文学や芸術に対してあれほど狭量であったのも、おそらくこの点に原因があるだろうし、グローバル資本主義が顕在化した現状を前に、柄谷行人をはじめ、かつてのマルクス主義を母体した批評家たちがこぞって文学という名の「美学」を捨て去っているのも、簡単に言えばこのためだろう。


 だから「表現」を考えるにおいて、あえて(マルクス主義的批評軸を辿ることなしに)「美学」を通じて主体と世界との断層を考察する佐藤氏の講義は、実は「表現」の自律性を嫌悪する理論畑の人たちにこそ聴講してもらいたいし啓発されるところが多いと思う。批評というものは「表現」そのものを直視することが許されないジャンルであるからこそ、改めて「表現」の在り方を考える必要があると思うのだ。
 逆に言えば「表現」にしか興味がない、いわば芸術至上主義の立場を取る人は――この公開講義にも通じるところのある――アガンベンの『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』や、『スタンツェ』などに触れ、「表現」というものが本来的にいかなる困難に直面しているのかを理論的に確認してみると、とかく袋小路に陥りがちな「表現」という行為について、新たな角度から見直すことができるのではないかと思う。そういえば、アガンベンはもともとは美学者だった。

スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

 ※なお、今回の講義で触れられたジョナサン・リテルの小説については、日本語の解説のあるブログをご紹介しておく。

http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/2006/11/jonathan_littel_1bfa.html

http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/2007/01/les_bienveillan_9b6b.html