母校・北海道旭川北高等学校からの寄稿依頼
私は北海道旭川北高等学校英語科というところの卒業なのですが、第5回日本SF評論賞受賞に伴い、母校の方より『旭川北高図書館報「樹海」第1号 2010年5月7日(金)』掲載用に、在校生に向けてのメッセージの寄稿依頼をいただきました。ありがとうございます。
しばらく時間が経っておりましたが、最近になって掲載見本を送っていただきました。何かしらお役に立てていただける部分もあるかと思い、ありがたくも依頼者様からの許可を得まして、こちらに内容を転載させていただきます。
私はひねくれた高校生でしたが、高校の時の自分に今だったら何を言うのだろう、という観点で考えてみました。
二〇〇〇年卒業の岡和田晃と申します。このたび「「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃『虐殺器官』へ向き合うために」という評論で第5回日本SF評論賞優秀賞をいただきました関係で、皆さんにメッセージを託すよう申し受けました。
ただ、私がお話できることはたった一つ。評論に限らずものを書くという仕事は「他者」に向き合う作業だということだけです。
私は賞をいただく前からライターや翻訳の仕事をしてきました。その経験を通してわかったことは、ものを書いている「私」と、書かれたものを読む「他者」というものが、どうしようもなくかけ離れた存在、すなわち別個の主体だということでした。別個の主体であるがために、「私」と「他者」は各々、ものの受け捉え方が異なってきます。
言いかえれば、ものを書くことは、それを読む人が存在する限り、必ず「他者」との出会いを含みます。そして評論という仕事は――作品を読んでいく過程を通し――「私」と「他者」との距離をとり測っていきながら、「私」に宿る個別的・具体的な要素を一般的・普遍的な要素と出逢わせようとするという行為にほかなりません。それは孤独で時には虚しさすら覚える仕事ですが、読むことと書くこと、両方の醍醐味を存分に味わい、新たな発見へ繋がる創造的な作業でもあります。
私が分析した『虐殺器官』という小説は、現在、世界中で引き起こされている大規模な殺戮行為を「他者」として、そしてその殺戮行為に気がつかず安穏と生きてしまえる「私」の在り方を、これまでにない形の表現を通して取り結んだ作品です。
私は評論を書きながら、こうした無慈悲な世界という「他者」へ向き合うとはどういうことかを考えました。よろしければ皆さんも、読書を、そしてものを書く行為を通して、世界という大きな「他者」について考えてみて下さい。そうすればきっと、まだ見ぬ「私」との出逢いが待っていることと思います。
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