大杉重男氏への応答

 

 「図書新聞」2018年10月20日号に掲載した「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四四回」に対し、文芸評論家の大杉重男氏から、氏のウェブログ「批評時間」において反論があった(「文学を愛することについて」、2018年11月15日付け)。「図書新聞」の紙面では紙幅が限られているので、私のサイトをもって応答を試みる。

 

・応答の前提

  まず、はっきりさせておきたいこととしては、大杉氏は私の評について「批判的な」評と書いてあるが、実は大杉氏が引用した箇所の前段には、「朴裕河の『帝国の慰安婦』をめぐる論争の整理には説得力を感じさせる記述も多い」と、大杉論を評価するコメントがついている。そのうえで付された時評なので、「批判」とみなされた部分は、議論の解像度を上げるために限られた紙面でなしえた、読み手からの(ささやかな)提案にほかならない。

 

アイザック・アシモフについて

  私が時評で述べた「アシモフが基盤になることからもわかるとおり」というのには、二つの含意がある。第一に、そもそもアシモフの「ロボット工学三原則」は、あまりにも有名がゆえ、それらを応用した議論や作例は事欠かない。にもかかわらず、大杉氏がそれらの歴史的蓄積を押さえているとは、(応答を読んでも、なお)まるで思えないことを問題視している(*)。そもそもの話、アシモフを「あっけらかんとした戦争の反省なき」作家と捉えることは、本当に正しいのだろうか? クリシェにすぎないと思う。アシモフユダヤ系であり、それによって生じた陰影は、よくテクストを読むと、かなり如実な形で反映されている(むしろ、アシモフを本当に「読む」のであれば、ナボコフあたりと並べるのが的確かもしれない)。

 噛み砕いて言うと、実のところ私がアナクロだと書いたのは、アシモフそのものに対してでは、必ずしもない。真に問題なのは、アシモフを「文学」としてではなく、「エンターテイメント」などと短絡的に言い張り、そうした解釈枠について反省的に問うことがない批評性の不足にこそある。

 「アシモフが「アナクロ」だということは日本国憲法も「アナクロ」」と大杉氏はさらりと述べているが、私は日本国憲法を「アナクロ」などとはまったく書いていない(このさりげない飛躍には抗議しておく)。強いて言えば、日本国憲法を解釈するために大杉氏が用いたツールが錆びついており、磨き直していないのではないか、と指摘しているのである。

 というのも、これは第二の問題につながるのだが、「ロボット三原則」で「日本国憲法」を解釈するという試みを、大杉氏は「早稲田文学」で連載していた(「「ロボット工学三原則」と日本国憲法――「日本人」の条件(1)」など)、連載は二〇〇八年に開始されたもので、このときは新鮮な気持ちで読めたものの、少なからず状況が変わった現在においては、題材こそ新し目のネタを使いながら、理論的な部分に関してはほとんど変化がないように見えた。そのように読めてしまう理由の一つは、「「日本人」の条件」がまとめて本になっていないからかもしれない。

 「子午線」第2号のインタビューで大杉氏は、連載をなかなか本にできない趣旨の苦労を述べていたものと記憶するが……いまはオンデマンド出版でも電子書籍でも、それこそ手段には事欠かないし、文学フリマや日本近代文学会(私も会員である)の物販スペースなど、いくらでも発表の場はあるだろう。もし、『小説家の起源』および『アンチ漱石』に続く、大杉氏の第三評論集が出るのであれば、喜んで私はお金を支払いたいと思う。

 

・J・G・バラードについて

  私が時評でJ・G・バラードの「終着の浜辺」について触れたのは、それは「歴史の終わり」そのものがテーマだからである。そこに描かれているのは「廃墟趣味と抒情性」などではまったくないし(このような読み方は、いくらなんでも浅薄にすぎる。せめて、筒井康隆の放言を解析するくらいの熱量は示してほしいものだ)、「冷戦時代の歴史性を色濃く反映」していることは否定できないものの、より強くテクストが描こうとしているのは、1945年8月5日・6日に広島へ落とされた「核」である(参考:バラードの訳者・増田まもる氏の批評 http://blog.tokon10.net/?eid=1052625)。

 ちなみに、バラードは上海時代に収容所体験を経ており、それは「自伝」的な虚構である『人間の奇跡』に詳しい。いまはバラードの短篇は全集も出ているので、どうせ読むならば「SFの専門家」とは「議論を避ける」などとは言わず、しっかり読んでほしいものだ。

 

筒井康隆の問題発言について

  「慰安婦」をめぐる筒井康隆の問題発言については、私は「図書新聞」2017年5月20日の、第二七回の時評で記している。

 大杉氏が、あえて「トリヴィアル」な部分にこだわりたいというのは理解し、そのこと自体は否定するものではまったくないが、私が筒井発言を詳細な言及に値しないと考えるのは、『モナドの領域』に続く近作にからめての文脈である。

 

・「ヘイト」について

  大杉氏は、「「ヘイト」は何時でも必ず「ヘイトに対するヘイト」」と述べているが、本質主義的な体裁をとった「どっちもどっち論」の変種としか思えなかった。いまの状況において有効性を持つとは思えないし、何より説得されない。

 そもそも、“文学嫌い”というのは、「ヘイト」でも何でもない。ヘイトスピーチの「ヘイト」は、「人種、皮膚の色、世系又は民族的もしくは種族的出身に基づく」(人種差別撤廃条約1条1項)差別を、例えば指すものである。その意味で、大杉氏の論考も、引き合いに出された綿野恵太氏の論考も、「ヘイト」ではまったくない。

 私が大杉氏の論を“文学嫌い”と書いたのは、『アンチ漱石』で大杉氏が打ち出していたようなカノン批判が、より縮小された形で――今回のアシモフやバラードへの言及に顕著だが――論じる対象へのリスペクトを感じさせないものとして、再生産されていた点を指摘している。なるほど、筒井発言については「文学的」に読んでいるかもしれないが、筒井の近作についても、同様の深読みがほしいものだ。そのような姿勢では、「文学に愛されたい」と言っても、ありていに言って、まあ難しいのではないか(受容の準備ができておらず、認知的不協和に陥るだけである)。

 なお、なぜか渡部直己氏が引き合いに出されているが、理解不能である。氏のセクハラを私はまったく支持していない。理由については、「図書新聞」2018年7月14日号の「〈世界内戦〉下の文芸時評 第四一回」で記した。それに、私は大杉氏が言うような意味で「文学」を「愛した」ことはついぞない。

 

・「東浩紀以降の批評家」について

  最後に付言すると、私のことを「東浩紀以降の批評家」などと言われても、東氏に何らポジティヴな影響を受けていない私は、そのようなラベリングを公にされることに対し不快感を表明せざるをえない。

 それを言うなら、私は2002年度、早稲田大学で大杉氏が開講していた『シュレーバー回想録』の講読を受講していたことがある。とかく休講の多い印象が残っているが、刺激を受けた部分も多く、大杉氏の批評を能う限り読むきっかけとなった。大杉氏が「群像」に書いた「神経言語論」(1999年)とリンクする部分が多い講義内容だったと記憶する。

 少なくとも、私は『シュレーバー回想録』を大杉氏によって意識するようになった。この経緯を鑑みると、あえて私のことを先行世代の批評家「以降」と書かなければならないのであれば……私に関しては「東浩紀以降」というよりも、「大杉重男以降」と評するほうが、「東浩紀以降」などとされるよりは、まだしも正確性の高い記述だといえる(そうせよ、と要請しているのではまったくない。念のため)。

 

(*)一点挙げるのであれば、宮内悠介『スペース金融道』では、「ロボット工学三原則」を(とりわけサイバーパンク以降の)ポストヒューマニズムの観点から読み替える試みがなされている。「純文学」の領域でも活躍する宮内は、『スペース金融道』を自覚的な「エンターテイメント」として書いている旨をさまざまなところで述べているが、それを真に受けて、もし本書を「エンターテイメント」としか読めないのだとしたら、問題だ。バラードがピンとこなかったらしい大杉氏には、本書を読んでいただきたいと思う。

 

 2018年11月22日 岡和田晃

※11月23日および12月6日、趣旨はそのままに、一部の誤記を修正した。