ヴァンパイア:ザ・マスカレード


 傑作RPG(おおっと失敬、ストーリーテリングゲームだったな)『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』をプレイする。ルールブックは4年前の日本語版発売当初に即買いしていて、その後もサプリメントが発売されるたびになけなしの銭をはたいて購入してはいたのであるが、結局のところ読み物として楽しむだけで、使えず仕舞いであった。


 それはなぜか。答えは単純である。


 ルールブックの記述が提供してくれる世界観があまりにも素晴らしいものであるがゆえに、それがいざザラザラとした地平へと落とされてしまったとしたら、もはやそれはV:tMの世界とは異なるものとなってしまうだろう、ということが、そう、明白だったからだ。いや確かに、RPGにおいてシステムの運用はユーザーの「自由な手に」委ねられていて、結局のところ何をしてもよい。
−ルールはあなたたちが所有しており、あなたたちが世界を作り出せばよいのだから。オリジナルという名のもとに正当化されたる史劇の、なんと輝かしいことよ! その意味においては、畏れることなどなにもない。


 しかし。


 しかし、である。本当に何をしてもよいのであろうか?


 答えは当然、否。


 なぜかといえば、個人の妄想とRPGのセッションとは根本的に別物であって、その境界はいわゆる「公共性」の有無にあるからだ。


 最近この手のタームはなんだかよくわからない、ずいぶんと気持ちの悪い文脈で使われるようになってきてしまったような気がするのだが、本ノートでは状況をあえて単純化して、「公共性」が要求される場の位置付けを、
①作品そのもの(この場合はV:tMのルールブック) ②参加者同士が共通に認識している世界観
の二つに置くことにしよう。


 RPGのセッションを円滑に進めていくためには、どうしても、この両者が要求する場が発する「公共性」のうえに乗っけるという束縛の過程を経る必要が生じてくる。そして、本質的にこの両者から逸脱することができないからこそ、RPGはオタクの内輪受け遊びだとか(まあ、言いえて妙と言う気もしないではない)、二次創作だとか(いや、原作付きのゲームは大抵面白くないし、一回のゲームそのものの発生が二次創作だという指摘もどうかと思う)がいう非難が生じてくることになる。


 しかし束縛があるということは逆に言えば、形式を利用することで内容そのものを彫塑的に素晴らしいものとすることのできる可能性もあるわけなのだが、ここが罠なのだ。
 ヴァンパイア:ザ・マスカレードが要求する水準は、あまりにも、そうあまりにも高いのである。といっても別段、マーロン・ブランドばりの演技力やフリードリヒ・シラーばりの、「高尚」な悲劇精神が要求されるわけではない。ここで言うの水準の高さとは、GM(このゲームではストーリーテラー)やプレイヤーが、V:tMの詳細な設定を、単なる記号化を避け、ある種のリアリズム(必ずしも自然主義的というわけではない)を持って理解し、血肉化している必要があるということを意味する。もちろんこの過程で先に述べた二つの「公共性」をクリアーしなければならないのだが、そのうえで、頭で理解している情報を整理し、皮膚感覚的な部分にまで落としてきて、書き言葉ではなく話し言葉としてキャラクターの行動決定や意思表示を進めて行くのは、なかなかに困難だというわけなのだ。


 あまり詳しく知っているわけではないが、最近RPGが非難を浴びる論調のひとつとして、それが、「大きな物語(大抵はジャパニメーションや18禁コンピュータゲーム)」を前提とし、それを構成している物語要素を詳細に分析し、解体して記号化し、ランダムイベントチャートのような形で、整理立てて羅列していくがゆえ、作家性が彼方へと消え去ってしまう、といったことが挙げられる。
 参加者はこれらの提示された物語要素を選択し組み合わせることで、「大きな物語」のイメージを共有したまま、二次創作的にアナザー・エピソードを再構成するというのがスタイルの基盤となっており、それが幼稚だ、ということらしい。


 だが、一見似通っているように見えるかもしれないが、これらのスタイルとV:tMとの差異は意外に大きい。それらを形作っている一番の要因は、V:tMのスタイルが、ゲームの構成要素の単純な記号化や類型化を拒否しているために起こってくる。しかしプレイアビリティを上げるためにこれらを捨象してしまうと、セッションは「V:tM」のルールブックからイメージされるプレイスタイルからはずれていき、限りなく先に二分化した前者へと近づいていくことになる。このずれを解消していくためには(いやもちろん、解消せずともよいわけではあるが)、プレイヤーにルールブックを熟読させるとともに、たとえばべラ・ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』など、それっぽいイメージソースを与えることで発想の転換を図るか(注意すべきは、このイメージソースが「大きな物語」とは異なり、あくまで発想のヒントでしかないことである)、長い目でキャンペーンゲームを進めていき、徐々に染めていくしかないのである。


 さて、ふと思い立って今回のセッションでは久方ぶりにプレイ風景をテープに録音してみたのだが、ゆっくりと記録に起こしていけば、このあたりへの考察への理解が、深まってくるやもしれぬ。とりあえずそう思い込むことにする。