そんなわけでアルフレート・デーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』を読み直したのだった。


▼この本、河出書房新社の「モダン・クラシック」シリーズから翻訳が出てるのだがどこに行っても見当らなくて、ネットで捜しても「かつては古本で3万円の値段がついていた」とか、そういう塵芥のような情報しか手に入らない。評価は極めて高く、ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果ての旅』と並べて讃えられるほどなのだがそれでも見付からない。仕方がないので、東京都内の図書館に一斉検索をかけると、ほぼ唯一目黒の図書館がヒットしたから、そこで借りてきて読んだという経緯がある。そして今回はもう一度、『ベルリン・アレクサンダー広場』のために目黒くんだりにまで出かけていったのだ。


▼解説や文学史などを紐解くと、『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公はベルリンという都市そのものである、などと語られているが、「都市が主人公の実験小説」などと言って片付けてしまえる類のものではまるでない。


▼筋は映画とほとんど同じ。しかしスタイルはまったくもって異なる。男が巨大都市を彷徨う『ユリシーズ』のような作品なのだが、方向性は全然違って、『ユリシーズ』に漂うスノッブ臭さや鼻につくチャラさは微塵も無い。


▼一人の男が巨大な何かに必死で抵抗するものの、絶えず翻弄され、「ハンマーで打ちのめされる」様が繰り返し描かれる。しかし、このリフレインの構造は作品全体の流れのなかにきっちりと嵌めこまれていて、無駄な部分は一ヶ所も無い。映画で顕著だったメロドラマ的な会話の数々も、こうした構造の中に埋め込まれることで、生き生きとした実在性を帯びるに至っている。そうした人々の生き様とともに、彼らが生きている世界そのものが、単なる描写という枠組みを越えて(描かれ方はあくまで「描写」であるのだけれども作品内で与えられている役割が異なっているのだ)、強烈なダイナミズムをもって迫ってくる。群衆劇に特有の、登場人物に注がれる視線の等価性を保ちながら、物語の総体が絶えず運動を続けるのだ。開かれた形式でありながら、形式として完成されている。都市の暗部という表層しか描かれていないにもかかわらず、読む者の心を深く抉り、ただただ沈黙を強いる。デーブリーンは「形而上学」への憧れを隠そうとしないが、軽々しくそこに逃げず、観念のなかではなく、生の実在において壁を乗り越える。そして、この「愉快な」リズム!


▼打ちのめされた。紛れも無い大傑作だ。大仰な紋切り型をもってしかその素晴らしさを語ることができないのがかえすがえす残念だ。映画に顕著だった政治的な「語り」が無く、あくまで描写に専念していることが完成度を更に増している。


▼最後の一文。個人的には、カート・ヴォネガットタイタンの妖女』の名フレーズ、「借りちゃった、テント、ア・テント…」を凌駕した。

自由のなかへ、自由のなかへ行進だ、旧い世界は崩れざるをえぬ、目覚めよ、暁の大気。
足どりしっかり、右、左、右、左、進め、進め、われらは出陣、百人もの軍楽隊がわれらといっしょだ、太鼓を鳴らし笛を吹き、プカブン、プカブン、だれかがうまくやるとだれかがしくじる、だれかが立ち止まるとだれかがひっくりかえる、だれかが走り出すと、だれかがだまってひっくりかえったままだ、プカブン、プカブン。