ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが監督したTV映画『ベルリン・アレクサンダー広場』(全14時間30分)を3日かけて観る。


▼もっとも、働きに行く必要があったので3エピソードぶんすっ飛ばしてしまったのだが、それでも見応えがあったのだった。ファスビンダーヴィム・ヴェンダースヴェルナー・ヘルツォークと並ぶジャーマン・ニューシネマの雄として名が通っているが、日本ではいまひとつマイナーなイメージがある。


▼かくいう俺も代表作である『リリー・マルレーン』の名前くらいは知っていたが、いまだ作品を観たことはなかった。筋は例によってごく単純で、要約すれば以下の通り。

 主人公であるところのフランツ・ビーバーコップ(「ビーバー頭」の意)は、日雇いのセメント運搬を生業としているプロレタリアートだが、あるとき誤って情婦を殴り殺してしまい、過失致死の罪で刑務所で四年を過ごす。
刑務所から出てきたフランツは真人間になろうと、ネクタイ留めやナチの党新聞の行商を繰り返すが、うまくいかない。
 新しく出来た彼女に紹介されて始めた靴紐売りの仕事も、仲間に裏切られて失敗する。
まっとうな仕事につくことを諦めたフランツは、酒におぼれながらも、ダーティな仕事に手を染めるようになる。
それは、裏社会の元締めの下で、仲間が盗みに入っている間に見張りをするという内容だった。
 この仕事を紹介してくれたのは、新聞の売り子をやっていた時に知り合ったラインホルトという男であるが、ラインホルトは無類の女たらしで、新しい女に惚れると旧い女をフランツに回してやったりしていた。
 だがこの手の微妙な関係がうまくいくはずもなく、ある時、苛付いたラインホルトは、フランツを囮にするため、彼を走る車から交差点に突き落とす。
 そのせいでフランツは車に轢かれ、左腕を失ってしまう。
 満足に働くことができなくなったフランツは自暴自棄に陥り、飲んだくれる日々が続く。
 そんな時、不意に現れたのが一人の少女と言っても通用するような美しい女性だった。
 彼女は「ソーニャ」(このネーミングは当然、ドストエフスキーへのオマージュである)と呼ばれており、フランツの元の恋人であり何かと世話を焼いてくれるエヴァという女性の親戚だった。
 ソーニャのあまりの愛らしさに心打たれたフランツは、彼女を「ミーツェ(仔猫ちゃん)」との愛称で呼び、同棲生活を始めることに。
 だが、ハンディを背負ったフランツは満足に働くことができない。
 ゆえに彼はミーツェのヒモをさせてもらうのだが、おのぼり娘のミーツェは満足な仕事ができず、売春をして二人の生計を立てることに。
 そんな日々に耐えられなくなったフランツは、一念発起してラインホルトのもとへ行き、仕事を紹介してもらえないかと頼み込む。
 当然ながらフランツに負い目のあるラインホルトは怪しむが、フランツが過去は水に流すといったので、しぶしぶ昔と同じように仕事をさせることにする。
 だが、ラインホルトはその代わりに一度ミーツェを拝ませろと言い、根が単純なフランツはほいほいそれに乗ってしまうが、これが運のつき。
 郊外の森にミーツェを呼び出したラインホルトは、ミーツェを殺害してしまうのだ。
 なぜ無辜のミーツェが死ななければならなかったのかということにはちょっとした理由があって、それはミーツェが、フランツが「腕を失う」原因を作った張本人はラインホルトだという告白を本人の口から聞いたからなのだが、この「ミーツェの死」が物語全体のカタストロフィを引き起こしてしまう。
 フランツは発狂して精神病院に収容され、意識不明の状態で様々なヴィジョンを観る。
 そして「真人間として」生まれ変わったフランツ・ビーバーコフは、「新しい世界」へと向けて行進していくのだった。


▼『ベルリン・アレクサンダー広場』は1928年〜29年のベルリンが舞台となっているので、「新しい世界」とは当然ファシズムを意識したものなのだがそれはさしおくとして、これだけの話で14時間以上も保つ訳は無い。


▼何が強調されているかというと、登場人物同士の対話である。それはどういう対話なのかというと、演劇的としか表現しようのない類のものである。あくまでも労働者の生活に根ざした、金と情愛と労働と為し得ない「革命」とが、絶えず血の通った人間の声で語られるのだ。


▼無論、そこに出口は無いのだが、フランツ・カフカのような幾何学的な底なしの迷宮を右往左往するという構図はまるでなく、俳優たちの声や語り口調、微妙な表情のつくりなどによって、生きたリアリティをもたらしている。セットにおける陰影の付け方も良い。


▼だからそれは、完全にメロドラマ的な筋立てありながら滑稽さと崇高さを失わない。自然主義的なリアリズムにはまるで頓着しないながらも、自然主義の根底に横たわるある種の精神性を抉り出す。言葉通りの意味で、シェイクスピア劇のようだ。


▼フランツが病院に収容されてからは物語は幻想の色彩を帯びるのだが、そこで描かれる情景はピエール・パウロパゾリーニ的としか言いようのないほどキッチュなものである。


▼もっとも、繰り返される屠殺や原爆のイメージにうんざりさせられることなどは無かったが、そのイメージの「安っぽさ」が妙に来るんだよな。批評意識を差し挟むことなく、ただただ見入ってしまう。