ヤーコプ・ベーメについて


 ultan.net(http://www.ultan.net)の力を借りて、ようやくジーン・ウルフ新しい太陽の書』の第五巻「The Urth of the New Sun」を読了しました。と、タイムリーに1巻〜4巻が復刊ISBN:4150106894(リンク先は『拷問者の影』のみ)。こちらもばっちり入手しました。
 もとは借りて読んだものだったので、こうして実物が書架に並んでいるとなんだか感無量です。いまだ紀伊国屋ジュンク堂クラスの大書店でしか入手が難しいようですが、少しでも多くの人にこの素晴らしさが伝わればいいな。
 なに? 俺が褒めるのだからロクなものではないだって? 残念ながらそうではありませんよ旦那。この本は世界幻想文学大賞ネビュラ賞ローカス賞、ジョン・W・キャンベル記念賞の4冠に輝いていたリするのですよ。あと仏語訳されてアポロ賞、ファンが根回ししてヒューゴー賞を取らせるとかしておけば完璧だったのになあ。ちょっと時代を後にしてペーパーバック化してフィリップ・K・ディック記念賞とかでもよかったし。ええ、賞なんて何でも与えてしまえ!

 しかし、正直ながら恥ずかしいところをカミングアウトさせていただくと、わたくし、この作品、たぶんに実存を重ね合わせて読んでしまっておりました。その読み方はちょっとなかなか簡潔に語れないものがありまして、強いて言えば以下に引用したヤーコプ・ベーメについてのノートに接するやり方に近いところがあったりします。
 最後の方とかとてもイタタな感じですが、最近古本屋でちらっと立ち読みした柄谷先生の『批評とポスト・モダン』にも、梶井への愛情バリバリのエッセイが入ってたりしたので、ああこんなに偉い人もカミングアウトしてるなら、俺もお蔵入りさせていたノートをここでこっそり公開しよう、と思った次第です。

※2018年注:その後、『批評とポスト・モダン』は購入して読みました。また、ここでのジーン・ウルフについての見方は、『「世界内戦」とわずかな希望』へ収めた「救済なき救済の相(かたち)」でも触れています。


【ヤーコプ・ベーメについてのノート】


 そもそも芸術作品とは捉え難いものであるが、それでもしばしば、われわれの持つ認識の多様性を、具体的な形象をもって示してくれるような事例が存在するように思われる。とりわけその傾向は、文学作品に顕著である。なぜならば、文学作品は言語によって構成されているからであり、言語は認識を具体化するとともに、認識をヴィジョンとして抽象化し普遍的なものへと昇華させることができるからだ。そして、雄大な長編小説よりも、短編小説のほうが、その構造が見えやすいこともあってか、思考のヒントとなるような事例には事欠かない。たとえば柄谷行人は『日本精神分析』において、芥川龍之介の短編小説から、近代国家制度(ネーション・ステート)がいかにして形成されていったのか、その契機のようなものを読み取っている。


 そして当然だが、柄谷が行ったような、文学作品から「政治的」な問題解決のためのヒントを見出すような批評の姿勢は、いわゆる時代精神や社会の風潮といったようなスケールの大きな問題を扱っているがために、斜に構えて見たとすれば、壮大な妄想とも受け取られかねない類のものである。実際、思想史的な問題について書かれた文章を目にすると、そこに書かれたものが、柄谷が行っているような方法をあえて受け入れて、「近代的」な主体として成立しつつある個人が<風景>をいかにして認識するかという、些細ではあるが、改めて見つめなおしてみると、底知れぬ思考の無限連鎖という迷宮に陥ってしまうような、ある種の問題へと繋がってくる。たとえば、梶井基次郎の掌編小説『筧の話』を観てみよう。


「すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のようなはかなさは私を切なくした。そして神秘はだんだん深まってゆくのだった。私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命をかがやす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりにみなければならなかったのである。何という錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ幻覚から二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に重なってしまうのだ。」(『筧の話』)


 よく知られているように、梶井は病気であった。肺結核に悩まされるとともに、病気によって引き起こされる迫り来る「死」への畏れと、自身が行っていたデカダンス的な生活に顕著に現れているような、青春期に特有の偏重し鬱屈した「自意識」とが、彼の視点に特有の、他の作家には見られない「何か」を形作っていることは、精神分析的な読みを行うなどといった愚かしい行為を経ずしても明らかであろう。


 しかし、それだけなのだろうか。


 『筧の話』のラストは、「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」との一言をもって結ばれるのであるが、ここに表現されている感情を、単なる病気や自意識の帰結として理解し解釈してしまっては、それこそが「永遠の退屈」となるであろう。だが一方でわれわれは梶井基次郎ではない。彼が何を思ってこの文章を書いたのかは、限りなくその思考に近づくことはできても、その内側に入り込むことは、本人ではないのだから、おそらく不可能であるに違いない。比較文学的に考察しても、その事実に変わりはないだろう。仮に「心境小説」の傑作とされる志賀直哉の『城の崎にて』と並べて論じてみたとしても、梶井の視点の特異さが浮き彫りになるような効能はあるかもしれないが、それがいったいどのような種類のものなのかは、ある種の秘儀的な領域に閉ざされたままとなってしまうのではなかろうか。


 それでは、いったいどうしたらいいのだろうか?


 われわれはここで、ヤーコプ・ベーメのテクストを参照することにする。周知の通りベーメは16世紀のドイツを生きた神秘思想家であり、その著作は、決して普遍的な認識を得るには至ってはいない。これは、彼のテクストが論理的に書かれていないということを意味するのではなく、可能な限り客観的に思考の過程を叙述していく「哲学的な」テクスト群に比べ、ベーメのそれは、キリスト教的、おそらくやや原理的なカトリシズムの思想がその根幹をなしており、そこから枝葉していく形で論理体系が形成されているのだから、その全体像を掴むためには、まずは根元にある宗教性そのものがどのようなものであるのかを、感覚的にであれ掴み取っておかねばならない、ということが必要であることを意味する。再び例を出して恐縮だが、日本の法律を学ぶためにはまずはその根本思想であるところの日本国憲法の思考形態を理解しておかねばならないということとそれは似ている。そして、それは、憲法の理念が受け入れがたい人間にとっては、法律の考え方に知らないうちに抵触することはあっても、その内奥に踏み込むことは不可能となるだろう。


 一介の靴職人にすぎなかったベーメが、自らの稀有なる体験に基づいて、処女作であるところの『アウローラ 明け初める東天の紅』を著したのはすでに37歳のときであったが、そのすぐ後に教会から異端の宣告を受けながらも彼は、把捉し得た「神の深い感情」を客体的な「理知」によって表現するべく勤めたのだった。そしてそれは同時に、摩訶不思議な「自然」の本質を「正しい理知」によって語ろうとしたということをも意味する。そして、彼の試みた「自然」への神智学的アプローチは、「自然」の本質を科学的な方法ではなく、あくまで人文的な方法(たとえば顕微鏡のような「器具」に頼らずして植物を観察する、などと言った方法。馬鹿らしいが、科学的な検地からは再評価が為されていたりするらしい)から理解しようとした人たちによって根強く支持された。同時代の人々はさることながら、18世紀に入っても、ゲーテノヴァーリス、ティークらに代表される文豪たちの創作に強いインスピレーションを与えてきたことからも、べーメの思想の有した影響力の強さがうかがえる。


 しかし同時に、彼の神智学は危険な側面をも含んでいることは論を待たない。『アウローラ』に代表されるベーメの著作は、たやすくオカルトや疑似科学の文脈に接合できるし、いわゆる「神智学」的な思想そのものが(ルドルフ・シュタイナーの「シュタイナー教育」のように)、批判の対象となっているのもまた事実である。これは、先に述べたような、ベーメ的な思想に付きまとう普遍性の欠如もさることながら、「自然」を論題として用いながらも、思弁によって得た結論を、具体的な実験を通して、目に見える形で表明し、その表明されることで得られたうえに新たな問題を上乗せすることで研究そのものを進歩させることが困難であるという、自然哲学の方法そのものにおけるディレンマによるところが大きい。近現代における自然科学の功罪についての価値判断は本ノートでは据え置くが(興味のある向きはベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』を読むと良いだろう)、「神知学」につきまとういかがわしさについては彼の受容者たちも感じていたようで、小田部胤久は『象徴の美学』において、フリードリヒ・シラーの美学体系を「象徴」という語をキーワードにして読み解いているが、それによれば、シラーは「自然」について考えていく際に、いわゆる「神智学」的な方法を踏み台として用いたものの、後にその考え方を撤去し、完全とは言わないまでもはっきりと決別した姿勢をとっている、と説明している。


 金のためというエクスキューズを添えながらもホラー小説『降霊妖術師』のような作品を書いてしまった、かのシラーでさえそうなのだから、われわれも、いわゆる神智学的な閉ざされた空間に留まるような愚挙は行わない。『アウローラ』に代表される彼の思想を理解することは、あくまでわれわれにとっては、「自然」を考えていくための、いわば階梯に過ぎないのだ。この階梯という語は、必ずしも否定的な意味で用いているわけではなく、その神秘的思想を用いることで、梶井が見たような「自然」を、「毒をもって毒を制す」ように理解しようする、といったことを言いたいがために使ったのであるが、前置きが長くなった。それでは具体的に、テクストにあたってみるとしよう。
 『アウローラ』は邦訳にして430ページにもわたる大著であり、26章にもわたって細分化され、ベーメの初期思想が余すところなく叙述されている。


 それでは、『アウローラ』の「序言」に記されている、ベーメの根本思想を観てみよう。まずベーメは「美しい楽園に成育する一本の貴重な樹」に、「哲学、占星学、歴史学の全体を、それらを生み出した母をも含めて」、「善き甘い性質」と「それに反する他の性質、すなわち苦い、酸い、渋い」ということを併せ持つものだと語ったのであったが、そこから発展させて、ベーメは「世界」の構造を語るのである。そして、全能者である神を頂点に据えながらも、この世の多様性を可能な限り矛盾なく記していこうとしている点に、言うなれば、ベーメの思想の、「面白さ」がある。


「八 さて、わたしがこの譬喩で暗示したことに着目してほしい。この樹が生える園は世界を意味し、土地は自然を、樹の幹は星々を、太枝は諸元素を、その樹になる果実は人間を、そして樹の精分は澄明な神性を意味する。そこで人間は自然と星々と諸元素から造られている。しかし創造者たる神は、ちょうどその精分が樹の全体に行きわたるように、すべてのもののなかに支配するわけである。
九 だが自然は神の審判の日に至るまで、それ自身のうちに二つの性質をもっている。すなわち愛らしい天上の聖なる性質と、慣れる地獄の渇いた性質である。」(『アウローラ』、p.4)


当然ながらここでベーメは、単にキリスト教的な善悪二言論を語ろうとしているわけではない。彼によれば、そもそもあらゆる事物は不完全である。だから、それゆえに希望を「神性」へと向けていく必要が生じてくるのだ。


「八九 主要タイトルの「明け初める東天の紅」は、一つの秘儀、一つの神秘である。それはこの世の智者や賢者には隠されているが、彼ら自身もまもなくそれを知らねばならないであろう。けれども、この書を純朴さにおいて聖霊への希求をもって読み、その希望をただ神ににも置く者には、それは秘儀ではなく、開かれた認識となるであろう。」(『アウローラ』、p.20)」


 それでは、ベーメ的な「開かれた認識」は、いったい、どのように選ばれるのであろうか。かくして話は「第一章 自然における神的本質の探究について」へと進んでいく。ここでは、ベーメの哲学を形成する根本の思想が、さらに具体性を帯びた形で語られていくのであるが、ここで注目すべきは「光」への視点である。先に述べたように、人間は「天上の聖なる性質と地獄の渇いた性質」とを併せ持ち、「この二つをそれ自身に持たなければ、自然的な生命のうちに存立しない」(『アウローラ』、p.25)のであるが、そのような「性質」のあり方を具象性をもって指し示してくれるものとして、ベーメは「光」に着目する。


「四 光、あるいは熱の心胸は、それ自身において愛らしく喜ばしい眺め、生命の力、照明、ある離れたものの眺めであり、また天上の歓喜の一部あるいは一つの源である。とうのも、光はこの世界において一切のものを生き生きとさせ、動かさせるからである。あらゆる肉、樹々や葉や草も、この世において光のうちで成育し、善としての光のうちでその生命をもつ。」(『アウローラ』、p.26)


 この「光」は、ベーメにとっては「神性」のいわば理念的な側面を現すものであり、それと対比させる形で彼は「熱」について語るのであるが、ここでは「熱」の解釈へと踏み込まず、あえて「光」の性質についてのベーメの記述を詳しく観てみることにしよう。


「六 光は、神のうちでは熱なしに存する。だが自然のうちではそうではない。というのも、自然のうちではすべての性質は一つの性質としてあるからである。それは、神が一切であり、神から一切が由来し発出するそのあり方に従って、相互に一つの性質としてある。神は自然の心胸あるいは源泉であり、神から一切は発起するのである。(…)
 九 だが熱のうちの光は、あらゆる性質に力を与え、それによってすべては愛らしく、喜ばしいものとなる。光を失った熱は他の諸性質にとって何の役にも立たない。それは善の消滅、一つの悪しき源泉である。なぜなら、それは一切を熱の憤激性のうちで潰敗させるからである。それゆえ熱のうちの光は生き生きとした源泉であり、そのうちに聖霊が入るが、それは熱の憤激性のうちには入らない。それでも熱は光を動かして、それで光は発動し、駆動する。ちょうど冬に見られるように、太陽の光は地上に届いているが、それでも太陽の熱の放射は地面に達していないという状態はそれである。だから冬には果実はならないのである。」(『アウローラ』、p.26)


 ここからベーメは「光」によって引き起こされる諸性質を雑感した後に、その根源であるところの「不変なる聖なる三重性」へと論を進めていくのだが、われわれはこの、「光」のところで立ち止まり、おそらくフリードリヒ・シュレーゲルがなんらかの形で参照していたであろう『アウローラ』が、ナポレオン戦争期の動乱の最中でいかにして形を変えて、シュレーゲル自身の思想に生かされていったのかを今一度俯瞰してみることにする。


 フリードリヒ・シュレーゲルはドイツ・ロマン主義を代表する論客と言われている哲学者で、シェリングヘーゲルの同時代人であるのだが、基本的にスピノザフィヒテを基調とした断片だらけのその著作は、文字通りイロニーと諧謔に満ちており、大変に謎めいた内容となっている。しかし、それはどこか啓発的な記述に満ちており、「真面目な」哲学者を苛立たせるとともに、ベンヤミンのような「感性の」思想家らに多大な影響を与えたのだった。なお、シュレーゲルはその生涯も謎が多く、若い時期に批評家としてデビューして以降、ヨーロッパ各地を転々としながら家庭教師として暮らす傍ら、哲学的な断章がその多くを占める、謎めいた著作をものし続けた。晩年にはメッテルニヒの書記官に抜擢されるという大出世を為すのだが、無論歴史に記録されたのは政治的な能力ではなく、処世的なしたたかさと腰の弱さ、ラディカルな嗅覚とある種の感性に訴えかける詩的な表現とが奇妙に混交したこ惑的なテクスト群に潜む奇妙な引力のためであろう。そのなかでも、ベーメの影響が色濃いのは、私講義を記録した草稿『哲学の展開12講』に収録されている、『宇宙生成論』だ。これはフィヒテ哲学の根本概念である「自我」を基盤として自然哲学的な観点から自然科学の現象を語ろうとした野心的な試みである。それでは、ベーメの「光」に対応するとおぼしき、シュレーゲルの「光」観を見てみるとしよう。



「「光」は、「無限の多様性と充溢」の根本理念の全的浸透と支配であり、「復興された根源的単一性」であり、「勝利を祝う愛」である。「光」は単に「無限の多様性と充溢への憧憬、予感」であるばかりでなく、その実現への希望、「形成と造形の衝動と力」でもある。この「光」のうちにこそ、「愛に満ちた作用」によって「形成と造形の最も豊かな多様性」を発展させる力が宿っているのであって、「光」とは最も精神的な要素、「精神一般」、「形成的悟性」、「完成された愛」、「天上的な神的思考」、「神的精神」である。」(『宇宙生成論』、p.5)


 そしてここでいう「光」は、『宇宙生成論』の根本思想である、以下の部分と繋がってくる。

 
「2 世界自我」の始原的状態。無時間的、無空間的、無意識的な漂い。
  すべての創世神話と同様、この始原的様態の何時、何処、何故は問われない。それは無自覚的な「自己同一性」と「原初的空虚」のうちでまどろむ「根源的単一性」の永遠である。この「原初的空虚」を「無限の多様性と充溢」によって満たしたいという「無限の憧憬」が訪れるとき――ここでも何時、何処から、何故かは問われない――、はじめて「世界自我」は自己の「空虚」と「無限の多様性と充溢の不在」とを意識し、ここに「世界生成」の第一歩が踏み出される。」(『宇宙生成論』、p.1)

 
 シュレーゲルによれば、この「憧憬」が空間を生み出し、始まりと終わりの無限循環の法則と、そのダイナミズムの純粋な要素が「解体的、破壊的原理」として作用し「火」となる。この「火」によってかき乱された「根源的単一性の意識」が修復へと運動をはじめることで「時間」が成立する。この際に介入してくる「統一性」への「鎮静作用」が」「水であり、これらの両者の「相互作用」によって「天上の空気」が再形成されていくのであるが、この「天上の空気」の一現象として現れてくるのが、「光」なのである。単純化して言ってしまえば、ベーメ的な純粋な「神性」の状態への前向きな回想によって止揚されるべき本来的な方向性を指し示してくれるのが、「光」の作用なのだ。そして「光」が消えたとき、そこには「死」が訪れる。『アウローラ』の「第17章 潰敗せる自然の状態、四元素の起源について」では、そのような「光」の役割がよりはっきりと語られる。

 
「けれども最も外的な誕生において光は消されたので、熱は把捉可能性のうちに捕らえられ、もはやその生命を生み出すことはできなかった。ここから死が自然のうちに来たり、自然あるいは潰敗した地ももはやそこから救い出すことはできない。こうしてもう一つ他の光の創造が起こらねばならないのであり、さもなくば大地は永遠に離れがたい死であることになろう。けれども現に大地は、その創られた光の力と点火においてその果実を生み出しているのである。」(『アウローラ』、p.255)


 この引用箇所に置いて「光が消された」のは、ベーメが語る黙示録的ともいえる神話的歴史体系において重要な役割を果たす、いわゆる「悪魔」と解釈することが可能な、サルニテルとルチフェルと呼ばれる存在がその原因となっているのであるが、ここで注目すべきは、「光」が消された後、「神」がいかにして「光」を再創造したかという点である。「第18章 天と地、そして第一日の創造について」を観てみることにしよう。なぜなら、この章の前半にあたる「深み」と記されているパートでは、「自然」における「最内奥の核心」が語られるからだ。
 しかし、先に述べたような、「自然」の頂点に「神性」が来るという構造は、いかなルチフェルとしても覆しようがない。そこで、ベーメは「神性」の「最内奥」へと、さらに目を「霊」的に目を向けるべく主張する。


「よく見てほしい。最内奥の最深なる誕生は中心にあって、神のもろもろの根源霊から産まれる神性の心胸をなしている。そしてこの誕生は光であり、この光はもろもろの根源霊から産まれるが、それでもいかなる根源霊もそれ自身だけでこれを把握することはできない。そうではなくて、各々の根源=霊はこの光のうちで、ただ自分がそのうちにある場を把握するだけである。けれども七つの霊は、すべてが一緒になってそのまったき光を把握する。なぜならそれらの霊は光の父である。」(『アウローラ』、p.262)

  
 ここの「最内奥の最深なる誕生」においてさえも、常に「光」は存在しているのである。問題は、このような領域の「光」を、いかにして現実界に接合するか、という点にかかっている。それゆえに、ベーメは「この世界における光の創造について」というパートにおいて、「光」をいかにして「霊」的に把握すべきかをとくと語ったうえで、以下のように述べるのだ。


「一二一 ここで改めて問われよう。神はいったい何を言われたのであったか、と。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。(創世記一・三)
一二二 その深みは、光が最内奥の誕生から発し、そしてさらに最も外的な誕生に点火したということである。」(『アウローラ』、p.277)

 
 こうして、限りなく「無」に近い領域、言い換えれば理念的な場所においても、「光」は、「根源霊」に常に隣接しているのであるが、ここで両者の距離を哲学的な観点から実測的に割り出すのは労多くして実が少ないように思われる。それよりも、「光」の性質に目を向け、それが「遊戯的」だと定義づけているシュレーゲルの『宇宙生成論』の記述を観ることで、「光」が、「光」にとっての「他者」に、どのように関わっているかという面に、観点をシフトしてみよう。


「「高次の原理」の活動によって純化され、自由にまで高められた「遊戯的活動」、これが「天上的な光」であり、これが変容しつつ勝利に輝く「愛」であり、歓喜の満ち溢れる栄光と至福の楽園である。」(『宇宙生成論』、p.4)


 この「栄光と至福の楽園」とは、『宇宙生成論』からの最初の引用で示した「復興された根源的単一性」が訪れる前の段階における「光」の最高次の位置を表しているが、このような「天上的な光」であるところの「遊戯的活動」は、「無限の多様性と充溢」を、最も純粋に形象化した側面である。先の引用に繋がる直前の部分を示すことで、そのことを裏付けてみる。


「「遊戯的活動」はいかなる特定の目的にも奉仕しないが、一つの「無限の彼方の終着点」としての目標をもっている。「無限の多様性と充溢」がそれである。この最終目標は「形成と造形」の限りない拡大によって達成されてゆくだろう。「遊戯的活動」によってはじめて生産と形成が開始され、これらの生産物、形成物のさまざまな結合のうちに、「個体性」の優美な花が、精神的な力と栄光のすべてが展開される。」(『宇宙生成論』、p.4)


 ここで言われる「遊戯的活動」は、フリードリヒ・シラーが『人間の美的教育について』で語っている同名のタームを、より無制約的な形で、言い換えればより根源的な形で、理念化しようとしたものであると言えるのではなかろうか。


「しかし人間のすべての状態のなかで、遊戯が、そして遊戯だけが彼を完全なものとし、その二重の本性を同時に展開させるものであるということを我々が知ったうえからは、単なる遊戯とは一体なんでありましょうか。あなたがこの点に関する御自分の考え方に従って制限と言われたものを、私は証明によって正しいものと是認した自分の考え方に従って拡張と申します。してみると、私は正反対にこう申すことになりましょう。すなわち、快適なもの、善いもの、完全なものに対しては、人間はもっぱら真面目であるだけであるが、美とは、彼は遊ぶ、と。もちろん我々はここで現実の生活でおこなわれ、通常はなはだ質量的な対象にだけ向けられている遊戯のことを考えてはなりません。現実生活のなかには、ここで論じられているような美を探してもむだでしょう。現実に存在する美は、現実に存在する遊戯衝動に値するだけですが、理性が提示する美の理想によっては、人間がそのすべての遊びのなかでまのあたりにすべき遊戯衝動の理想が与えられるのです。」(『人間の美的教育について』、p.152)


 けれども、これらの「遊戯衝動」が、それが善も悪も美も醜も含み、かつ「自由」な「神性」に向かって理想的なものであればあるほど、それが『筧の話』にて梶井の言う、「永遠の倦怠」へと逆説的に近づいていくということは、「光」に表象される理念としての「神性」を、歴史的にも物理的にも決定的に欠きつつあった、柄谷的に言えば「近代」という病に根付いた、いわば必然的な「運命」なのだと言えるだろう。

 
 だが、そうした変えようのない「運命」を生きざるを得ないという姿勢を達観することには、どこか捻られた愉楽があるのも、また事実だ。大文字で語られる「ネーション&ステート」の成立の陰に隠された、いわゆる「神秘主義」的なものとは縁遠いかような神秘にこそ、案外、探るべき価値のあるものは眠っているのかもしれない。

 
【参考文献】

梶井基次郎全集』(ちくま文庫
柄谷行人『日本精神分析』(文芸春秋
志賀直哉『城の崎にて』(『城の崎にて・小僧の神様』収録、新潮文庫
小田部胤久『象徴の美学』(東京大学出版会
ヤーコプ・ベーメドイツ神秘主義叢書8 アウローラ』(薗田 坦訳、創文社
フリードリヒ・シュレーゲル『宇宙生成論』(酒田健一訳、『哲学の展開12講』)
フリードリヒ・シラー『人間の美的教育について』(石原達二訳『美学芸術論集』収録、冨山房百科文庫