向井豊昭『怪道をゆく』


 以前、このブログで向井豊昭の『怪道をゆく』を読みたい! と書いたら、向井豊昭さんご本人がコンタクトを取ってくださった。http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20070120/p2を参照。
 正直、なにやら住所を探ってくる新手の詐欺か何かかと警戒しないではなかったが(このご時世ですから)、向井豊昭を名乗る詐欺師にならば騙されてもかまわないかな、と思ってダメもとでメールを出したら、本当に立派な装丁の本が2冊送られてきて驚いた(しかも本の料金も送料も先方の負担である)。


 『怪道をゆく』の改訂版(『早稲田文学』発表の「ヤパーペジ チセパーペコペ イタヤバイ」と、新作「南無エコロジー」が同時収録されている)と、同じく『早稲田文学』系の作家・麻田圭子との合作『みづはなけれどふねはしる』である。奥付には、「BARABARA書房 定価0円プラス冗費税」とある素敵センスのご本だ。
 向井さんのご厚意に感謝しつつ、それぞれ時間をかけて2度読み返した。


 たまたま、のっぴきならない事情にて『怪道をゆく』の旧版は実家に保存してある。ゆえに詳しい異同はわからない。ご本人によれば、アイヌ語関係の間違いを直されたということだが、実際に受けた感触はより焦点がすっきりとした感じだ。
 だが相変わらず、ただならぬ作品であることに変わりはない。
 ゆえに感想を書こうとしても、平明な言葉にパラフレーズすることができなくなってしまっている。ご容赦されたい。


 なお、より明快な解説を希望の向きは、【中山昭彦:「〈アイヌ〉と〈沖縄〉をめぐる文学の現在−向井豊昭目取真俊」(小森陽一他編:『岩波講座 文学13 ネイションを超えて』,165-188 ,岩波書店,東京,2003)】を参照のこと。3月2日の『週間読書人』にもレビューがあるらしいが、こちらはまだ未見。
 また、『怪道をゆく』は刷ったぶんがぜんぶ捌けてしまったらしいのです。ですが、再販予定がないとは聞いていないので、ご希望の方は私のようにダメもとで再販希望のメールしたりするのがよいでしょう。



 『怪道をゆく』は北海道小説の最高峰と言っても過言ではない傑作だ。かつて、『早稲田文学』誌に発表されたが、かなりの反響を呼んだ模様である。津島祐子が絶賛の書評を書いていたりしたらしい。もっとも、私がこの作品に出会ったのは、全くの僥倖からであったのだが。


 そもそも北海道というのは、旧来のいわゆる日本的な伝統から(ある側面において)切り離されているがために、小説の舞台にしやすいらしく、とりわけ久間十義の『魔の国アンヌピウカ』のような「近代」を軸にアイヌの土俗性とUFO伝承を結び付けたイアン・ワトスン風のスペキュレーションを想起させる、かなりぶっとんだ設定をやすやすと許容するところがある。
 『怪道をゆく』もご多分に漏れず、ナビちゃんことカーナビに導かれ、「近代」の迷妄がもたらした壮絶なる迷宮のなかに話者と読者とを連れ込んでくれる。
 つまりは、戦後の日本の時代精神の迷妄(「大東亜共栄圏」のなれの果て)を、時間も地理的な位置づけもまちまちの場所への看板が混在するハイウェイに投影させた星野智幸の『ハイウェイ・スター』と同系統(同ジャンル?)にまとめられる作品だと言ってよいだろう。なんか、司馬遼太郎よりもスティーヴン・キングの翳が見えますな。
 いやしかし、『怪道をゆく』は『ハイウェイ・スター』よりも明らかに過激な問題意識に基づいているのだが、読み進めるうちに、いわゆる「近代」の日本が抱えていた諸問題(例えば「天皇」)が、それ自体かなり狭苦しく自閉したものであり、ゆえに文化の混交が成り立たず、アイヌ文化に代表される大文字の「他者」を抑圧せずにはいられなかった、ということが浮き彫りになってくる。


 そして、『魔の国アンヌピウカ』が、あくまで(ある意味粗雑な)エンターテインメントの物語構造を援用しているがために、歴史の下部構造(つまり経済)に根付かざるをえなかった(そして、それを越えることもできなかった)のに対し、既存の物語を脱臼させ、言葉の次元から北海道のルーツに絡みつくことに成功した『怪道をゆく』は、下部構造の先にある本質的な何かに限りなく接近している(しつつある?)ように思えてならないのだ。


 思い返せば、貨幣に代表される近代経済というものは、国民国家の承認あってはじめて成り立つものであり、経済学の数字というものも、所詮は数理的な統制にほかならない。
 日頃生きていくうえで、数理的な統制というものは、私たちの生殺与奪の鍵を握っているように見えるのだが、逆に、私たちは、数理的な統制を過度に意識してしまうことで、私たちの言葉が元来有していたはずの多様性を、何処かに捨て去ってきている、とも言えてしまうのではなかろうか。


 私たちは、言葉が(マスメディアを通じ)大きくなればなるほど、言葉が発する(意味する)物語が単純化され、余計な修飾が剥ぎ落とされ純粋なものに変わる、という事態を経験する。そして、純化された言葉は孤独であるがゆえに、仲間を求める。いわゆる感性の共同体である。
 例えば、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公は孤独に井戸のなかに潜り、言葉を純化させることでノモンハン事件の記憶を塗り替え、宿敵「ワタヤ・ノボル」を打ち倒そうとするのだが、不思議と主人公は孤独であるかのように描写されているのにもかかわらず、まるでそのようには見えない。知らず、孤独な「私たち」が集合的な無意識を形成し、言葉を集め、おそらくそれを純化させてしまっているのだ。言うまでもなく、この純化の過程はどこか不気味である。


 言葉は純化されればされるほど、彫琢の度合いを増せば増すほど、美的な隙がなくなり多様性が失われたものとなる。シュテファン・ゲオルゲではないが、言語が凝集されればされるほど、美しく、人を惑溺させるような魅力を放つ。だが、いまはゲオルゲの時代ではない。凝集された言葉は、美の原像を失っており、曖昧な身内意識の集合体となってしまっている。そして、美の原像を跪拝するための細かな儀式だけが独り歩きしているのがこの国の現状なのだ。
 ある意味、そのような儀式のための儀式を打ち破ろうとして、「行動」という名のオルタナティヴの儀式を持ち出そうとしたのが三島由紀夫であった。だが、「行動」が虚飾であり、いくらザイスの神殿にて女神に智慧や生贄を捧げても女神はもう戻ってこないということをいちばんよく知っていたのもまた、ほかならぬ三島である(そうではない、と自分に言い聞かせていたというわけですね)。


 『怪道をゆく』の面白さは、三島の轍を踏まずに、三島よりも巧妙に(言ってしまえば老獪に)近代日本に対して攻撃を仕掛けていることだ。近代の美を徹底的に笑いのめし、背後にあるものにこそ目を向けよと、『怪道をゆく』は読者に促す。
 それでいて、採られる方法は『憂国』よりも過激であり(だってカーナビとセックスしてるし。ハリカリよりもイカすでしょ?)、かと言って坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』のように、政治を脱臼するために「美」を持ち出したりしない。
 「政治」と「美」の狭間にあるアンヴィバレントな空間(に留まること)は確かに魅力的だが、同時に私たちはこの国この時代に規範としての「美」が存在し得ないことをも、肌で感じ取っている。「政治」と「美」は、おそらく単なる言葉、美辞麗句の一種としてしか成り立たないのだろう。本当に「政治」と「美」を考えるならば、それらの言葉を使わず、より不定形かつドロドロな何かを掬い(救い)出すだけの何か、既存の「美」を脱臼するだけの何か。つまり「雑」が、あえて求められてくるのではないか? 
 『怪道をゆく』は、そう挑発的に問いかける。


 なお、同時収録の中篇「ヤパーペジ チセパーペコペ イタヤバイ」は、なんか「やってることが安易だ」という評価が雑誌掲載時に友人から下されていた作品だが、読み返してみるとそうでもない。同じく「南無エコロジー」については、まだ読めている自信がないので、今回は保留させていただい。