書店で帯を見たときビビっと来てたので、期待して読んでみる。
すごいね。
ちょっと調べてみたところ、SF者的には『メタルギア・ソリッド』を基本に、ブルース・スターリング、グレッグ・イーガン、山田正紀と3つの軸に引き付けて語る例が多いようだが、それだけではどうも物足りない気がする。よく考えたら、『あわれみ深くデジタルなる』を書いたスターリングや『バビロンの塔』を書いたテッド・チャンがいままでどうして迂回していたのかが(いや、私が知らないだけかもしれないけど)不思議なほど、今日的かつ重要な問題を語ってくれているからだ。つまり、スターリングもイーガンも山田正紀もチャンも書いていないことが、書かれていたというわけ。
いや、子ども兵の問題とかPMFの問題とかAK-47とか、そういうのだけではないんだ。
あのひどいラストの問題があるでしょ。これは主人公が(それこそカール・シュミットの『政治神学』やトーマス・マンの『魔の山』のラストのごとく)「そうしよう」と主体的に決断をしていたわけではなくて、さりとてトマス・ホッブズ的な「万人の万人による闘争」が再臨したと片づけられるものでもない。「そうせざるをえない地平」に、知らず主人公は追い込まれたのではないか、と思うのだ。
つまりはゲリラとかパルチザンとか自爆テロの方々(もちろんこれらを一緒くたにはできませんが)に極めて近い立ち居地に、語り手は置かれていると思うのです。シュミットで言えば、『パルチザンの理論』ですね。
続いて、言語哲学の問題について少しだけ。
本作に出てくる「埋め込み言語」、個人的には山田正紀というよりかはイアン・ワトスンの『エンベディング』を思い出しました。ワトスンの本は意図的に説明が不親切になっているのだけれども、Webでよい解説を発見したので、私が語るまでもない感じ。
http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/subaru/subaru8.html
ただ面白いのは、「虐殺の文法」はおそらく『エンベディング』に出てきたような生得的に「埋め込まれた」ものでは、さらさらないのだろう、ということだ。反対に、「埋め込まれた」ものをすべて切り捨てていったとき、最後に残ったものが「虐殺の文法」なのですよ、きっと。
そして、このことはもう圧倒的に恐ろしい。それでありながら、ひどく説得力がある。
3年ほど前、私はヌーヴォー・ロマンに沈潜していた。明けても暮れても、クロード・シモン、ナタリー・サロートらの著作を精読し、「彼らが言葉ですべてを書きつくしたその背後には何が残るのか」ということについて、うんうん頭をひねってきた。戦後派の日本文学、野間宏や坂口安吾らに引き付けて、考えたこともあった。
ただ、その「何か」ということについてはいくら時間をかけても端的に語ることなどできなくて(皮膚感覚では理解できるが言語化できないのだ)、結局、サロートが言う(言葉以前のものとしての)「マグマ」ではないかと曖昧に結論が出てきてしまう。
そして、その「マグマ」が「虐殺の文法」だったとしたら、あまりにも酷な話だ。シモンもサロートも今は亡いが、『虐殺器官』を読ませたら、蒼然とするのではなかろうか。だって、この話、ヌーヴォー・ロマンでは語れないんだもの。つまり、
不条理なもんはみんなカフカだ。
ということになってしまうわけですから。作品で描かれる状況が、かような解釈しか許容していないというわけ。
※註:なんとなく全体から『シャドウラン』臭がする。もちろんこれは褒め言葉で、テクノロジーを外挿するセンスに「新しさ」を感じるというわけだ。ARっぽい要素があるのとか、特に。
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