「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」の理論家向け先出し情報


 さて、「SF乱学講座」の日程も近づいてきました。そこで、予定されている講演「「ナラトロジー」×「ルドロジー」――新たな角度からSFを考える」について、主に現代思想や批評理論に関心のある方向けに、話そうと考えている内容の一部を簡単にご紹介します。
 『アゲインスト・ジェノサイド』を軸にした記述です。ある程度、理論的な考え方に慣れている人向けの内容となっております。当日はもっと噛み砕いた表現になるものとご理解下さい。
 また、変更がかかる可能性もあります。


 あまり余裕がないので、本エントリは本当にざっとした解説ですが、SF乱学講座ではこのあたりについても「ナラトロジー」(批評理論としての物語論)と「ルドロジー」(批評理論としてのゲーム論)の考え方を援用して、かつテクストに沿って、平易な言葉で突き詰めて考えていくつもりです。
 なおゲーム的な思考法に興味がある方は、理論的な文献だと、以下の高橋志行さんの論文「文芸批評家のためのルドロジー入門」が優れています。こちらもどうぞご覧下さい。


・文芸批評家のためのルドロジー入門
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html


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 あとがきで書いた、『アゲインスト・ジェノサイド』が小説に負けないようなリプレイを目指したというのはまったく嘘ではありません。
 成功しているかどうかはともかく、RPGというジャンルでしかできないような方法意識を、実際のセッションにおいても編集においても前面に押し出すように心がけているからです。
 ひとことで言えばそれは「意志決定」をどうするか、という話ですね。哲学的な「決断」(シュミット)の問題ともリンクする話です。


 ゲームが現代的なリアリティと関わりがあるとすると、「私」という存在がいわゆる全能・無限な存在としてリセットされたり、複数のオルタナ・エゴのもとで分裂するというポストモダン的な視座が軸になる場合が多いようです。いわゆる可能世界論はその延長線上にあるものだと言えます。
 そこに、たとえば志賀直哉の小説で出てくるような(旧来の)揺るぎなき「私」が対置され、前者は「新しく」、後者は「古い」とされます。あるいは前者は「チャラく」、後者は「本格的」なのかもしれません(実際、似たような対比として後藤明生はてなキーワード、というテーマで論文を書くとマーケット的には「売れそう」です)。


 しかしすでにRPGにおいては、プレイヤーとプレイヤー・キャラクターという軸で、常に主体は二重化されています。ペルソナとキー、ホンネとタテマエ。かように矛盾する両者があって、それらが「意志決定」を軸に統一されるわけです。
 それはいわゆる現代的な、分裂症的リアリティなどというものよりもはるかに進んでいる。つまり、時代の表象としての要素も孕みつつ、RPGは表現として「その先」をも射程に入れているのです。


 なのでおそらく理論的にRPGリプレイに新しさがあるとしたら、輻輳的な「私」が、「意志決定」を軸に結びついたり離れたりする運動そのものを読むことにあるのではないかと思うのです。
 ただし、「キャラクター」は、半透明な身体として自律しているわけではありません。バルザックの小説シリーズ「人間喜劇」では、ある物語に登場した人物が、別の物語にひょっこり顔を出したりします。あるお話の主役が、別のお話では端役、などということも珍しいものではありません。
 こうした物語空間と「キャラクター」は、それぞれ大文字の歴史性と密接に関わっているのですが、そうした歴史性はアラン・ムーアが『ウォッチメン』を書いた際(冷戦の終焉という歴史的な表象も関係し)、崩れ去ってしまったと思ってよいでしょう。

 そのため「キャラクター」には、世界設定、それも明確でリアルな因果律を有した設定が必要になります。『アゲインスト・ジェノサイド』では、(物語的にも、ゲーム的にも)設定の占める意味合いが強くなっています。
 設定のなかで「キャラクター」は生きなければならない。それゆえ、アイスキュロスが『アガメムノーン』に登場するクリュタイムネーストラーを通して書いたような、一回的な人間としての多層性が重要視されるようになります(ギリシア悲劇もまた、作品内にまたがって登場する人物の多いジャンルでした)。
アガメムノーン (岩波文庫)

アガメムノーン (岩波文庫)

 そして、「キャラクター」を介したプレイヤーとプレイヤー・キャラクターの二重構造は、さらに一層大きなゲームマスター=リプレイ執筆者という軸にも包まれます。しかし、さらに両者は対立します。
 実際、リプレイを仕上げた際にはプレイヤーからもチェックをもらって、「こんな編集はおかしい」と喧嘩になりそうになったりもしているわけです(屈服したりもしています)。
 なので、多くの小説のように「私」ひとりの記述ではなく、その記述は内側から常に瓦解されることになります。輻輳的な「私」だけではなく、常に内部に「他者」がいるわけです。
 インタラクティヴ・メディアを考える際の問題として、双方向を提示する先の「相手」の顔が見えないケースが挙げられますが、なるべく相手の顔が「見える」ような記述を心がけました。
 中心においた「虐殺」を聖杯探索的な「消失点=対象A」とし、シナリオのなかで回すようにしているのもマスタリングの際、意識的にやっている次第です。私はそうすることによって見えるパースペクティヴが何かを考えたいのです。あえて言いましょう。「キャラクター」は存在しません。いるのは、「人間」だけなのです。


※追記:「ミステリ界隈の文脈でも似たような意見がある」というコメントをいただきました。こうした文脈については「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」でも触れましたので、当日も語ることになると思います(同論文を所収いただいた『社会は存在しない』はまさしく「ミステリ界隈の文脈」に属する本です)が、ミステリ界隈の文脈がゲーム的なものを可能性として持ち出す際、「歴史」や「人間」そのものについての視座が甘い、少なくとも重要視されていないように、私には見えます。加えて言えば、インタラクティヴ・メディアと言いつつ、こうした理論的枠組みのなかではあくまで受け手は「お客さん」として一般化され、フィードバックされうるにしてもそれは症例のひとつがごとく扱われる場合が多い。それでは表現として貧しいものがあるのではないか、というのが抱いている問題意識になります。
 プレイヤー・キャラクター×プレイヤーの視座、プレイヤー×ゲームマスターの視座をそれぞれ作品内に組み込むところにRPGのもっともわかりやすい「新しさ」は根付いています。そこにうまく従来の文学史的な流れを接続できれば、RPGが、「歴史」を恢復させるひとつのとっかかりになるのではないかと私は考えているのです。文学史という概念に代表される表象としての「歴史」と、史料批判によって成立する仮構としての「歴史」の双方について、そしてひいては「人間」についての新しい視座を得るための契機になるのではないかと思っています。