「世界内戦とわずかな希望――伊藤計劃『虐殺器官』へ向き合うために」に関するフィードバックや、補足事項その2
「世界内戦とわずかな希望――伊藤計劃『虐殺器官』へ向き合うために」が発表されて1箇月半が経過しようとしておりますが、Ghost Soundや直接メールでいただいた反応には、なるべくリアクションをしたつもりですが、はてなダイアリーでいただいた感想について、反応をすることができておりませんでした。
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また、某所では勿体なくも拙稿を課題図書として、読書会まで開催していただきました。
さらには、有志の方が点訳して下さいまして、練馬区立光が丘図書館で読むことができるようになる予定です。点訳版は、訳者の方に無理を言って、エラッタと補足事項を反映させていただきました。
そうした経緯を踏まえたうえで、ちょっとした応答を。願わくばこれが単なる弁明とのみと受け止めらることなく、読まれる方の思考を深めるよすがとなれば、と思います。もちろん、個人攻撃などではまったくなく、あくまで、ご意見をきっかけに私の考えたことをコンスタティヴにまとめた、といった感じの文章です。やや雑な記述になってしまっているところはご寛恕下さい。
往々にして誤解されているようなのですが、拙稿は選考委員の方々の選評を踏まえたうえで大幅なリライトを加えています。
当然ながら、選評への応答をも内在させているつもりですので、願わくば、そのあたりを意識してお読みいただけますと助かります。
フレームワークについて
まず、伊藤計劃という人は、極めて自分の書いているものに意識的な小説家でした。SF作家には概してそういうタイプの人は多く、なぜそうなのかも作品を見てるとうっすらとわかってしまう作家もままいるわけですが、伊藤計劃という書き手は飛び抜けて構築的に自らの作品を捉えるタイプの人であったように思えます。
例えば『虐殺器官』にしろ、映像化をある一点で拒むところがある。映像情報として成立させるところを拒む部分が確実に存在する。このことは『虐殺器官』の極めてクリティカルなポイントなのではないかと思うわけです。
批評においては往々にして、フレームワークという手法が用いられます。自らの発言に客観性を担保せるために、作品に見合う分析上の枠組みを提示すること、そのことが、批評というものが広がりを見せる可能性をもたらすのではないかと思われている節があるように感じられます。批評家は往々にして作家よりも「頭が良い」ように振る舞いますが、それは作家には見えない高次のフレームというものの存在を感じ取っているからなのでしょう。
でも『虐殺器官』は違って、作品の半分はフレームワークで出来ています。これはある意味、SFの伝統にも連なりますが、また一方で、蓮實重彦の『陥没地帯』など、批評的な小説の伝統にも位置しているわけです。
拙稿はアガンベンを用いましたが、伊藤さんはもともとアガンベンのよい読者で、ご丁寧に『例外状態』の購入記録までブログで報告していたりした。なので、ただシュミット/アガンベン的な問題系を指摘したからといって、『虐殺器官』をわかったことには、残念ながらなり得ないというわけです。それはテクストの想定内の事柄ですから。それにSF界にはすでに、アガンベンが重要な要素として登場する、横道仁志「「青き森と闇の森」――憂鬱の中の笑い――」(「科学魔界」48号)という優れた仕事があることを忘れてはなりません。
そのため拙稿ではあらかじめフレームワークを想定しながらも、それを壊して作品そのものの内奥に近付くということをしなければなりませんでした。
「死」の問題について
加えて、「死」の問題があります。「死」は、それ自体を自律したものとして認識することが不可能な(少なくとも理性的には)ものですが、はからずしも伊藤さん自身の「死」によって、テクストの「死」が二重化してしまいました。
もちろん、私としては伊藤さんの「死」を通して作品が完成されたと言うつもりなどはまったくないのですが、こうした二重性によって、作品が遠いところに言ってしまったのは間違いありません。そもそも『虐殺器官』はゲラゲラ笑いながら読んだっていいテクストです。それこそ、『ドーン・オブ・デッド』や『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』みたいに。そもそも、自らを「名前のない何か」への対抗のアイコンとされることを、おそらく伊藤計劃という人は大嫌いだったに違いないのです。敵を措定するのであれば、できるだけそれは明確なものでなければならない。しかし、「死」はそれ自体として普遍性をまとった問題になってしまいつつ、一方で、本質的に「名前のない何か」なのです。
拙稿ではタルコフスキーの『ノスタルジア』を引き合いに出しましたが、あそこで、監督の父親である詩人アルセーニイ・タルコフスキーの詩が引用され、「詩は翻訳できない」という部分がありましたが、翻訳できなくてもそのニュアンスは感じ取ることができるだろうと、『ノスタルジア』はその映像を通して語りかけてきます。でも、『ノスタルジア』が語る「死」は、「虐殺の言語」と奇妙なまでに対照的だということです。
「死」が何かをわかっているからこそ、「死」へと近づけない。そうした状況では、限りなく『虐殺器官』の内在的な論理を汲み取るべく、作品へ近付いていくしかありません。だけれども、モーリス・ブランショのような手法はどうしてもできませんでした。
それは『虐殺器官』がSFで、SFということは、内在的な論理が道具として外挿(エクストラポレート)されてしまっているからです。
ゆえに、『虐殺器官』に入り込もうとしてしまえば、その回りをぐるぐると迂回せざるをえなくなってしまう。その迂回ルートをなるべくドツボにはまらせないために、歴史性を踏まえた形で、『虐殺器官』をめぐる「探究(クエスト)」としての批評が今一度必要となるのではないかと考えた次第でした。
「小説」を用いる枠組みを広げる
傍証の過程で「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」や「リトル・ボーイ再び」といった小説作品を用いたのは、その作品が歴史書以上に歴史的で、批評文以上に批評的だからです。
ある程度、特定の歴史的な事象をリサーチされたことのある方ならばわかるはずですが、歴史的な事象は往々にして、実証的な方法のみではこぼれ落ちる、色・音・肌触り・雰囲気のようなもの(うまく言えず、すみません)を有しています。アナール学派の歴史家たちは、そうしたものを逆手に取ったわけですが、一方でアナール学派の方法と、中心を挟んで正反対、けれども優れた方法を有した作品がありました。それが本稿で「フリードリヒ・Sのドナウへの旅」や「リトル・ボーイ再び」を援用した理由です。
私は常々、小説作品は思想として読み替えられるべきものが多々あると思っていますが、この2作品はそうした読み替えによって得られるものが、あるのは間違いありません。そもそも同じ事象を解説したものでも、歴史家が見るのと哲学者が見るのとでは、問題がまったく異なってきます。
19世紀を例に出せば、1848年革命などが典型ですが、「虐殺の言語」とはある意味、言語学というよりもイデオロギーのメタファーとして読めてしまうところがあるのも事実でしょう。
それゆえ、「世界内戦」というタームについても、可能な限りその言葉がフレームとして機能させる部分を、思いきって脱臼させる必要があるのではないかと考えた次第です。
小説はあくまでも内部に矛盾をはらんだ表現ですが、その表現によって切り開かれた位相を提示し、一種の思想として用いることの可能性も、また提示されてしかるべきものなのではないでしょうか。
情報と身体、あるいはゲーム性について
以前「ジャーロ」で『ハーモニー』を取り上げる際、私はそこで『ハーモニー』の主題である「情報」をミステリやゲームと横断させることで、「コミュニケーションと歴史性、そして「顔」の問題へ再考を促すという試みをしてきたつもりです。
たぶん近代的なヒューマニズムのあり方は、まだまだ議論が足りないと思うのですが、私の専門である(会話型の)RPGに関して言えば、一種のストリート・カルチャーとして、その身体性や文学性に着目する形で再度解釈し直すことができるのではないか、とぼんやり考えています。
ある意味、最近発売された『ダンジョン・マスターズ・ガイド』で示された「RPGケーススタディ大全」とも思しき文献に書かれていた方法論や、あるいは『ローズ・トゥ・ロード』新版などを読むと、特にそう感じています。このあたりをフィーチャーするのは、おそらく私の今後の仕事になることでしょうが、そろそろ発売される『ハーモニー』の英訳版が、何かしらヒントになりそうだと思っております。
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虐殺の文法とは何か?
「虐殺の文法」にリアリティがない、という意見をまま耳にしますが、このことについては、近代文学の成立以降、19世紀的な自然主義リアリズムの成立を経て、ヌーヴォーロマンやニューウェーヴのように、SFや文学それ自体の在り方を問うようなスタイルの成立といった状況を前提とした文学史/SF史への目配せがあれば、ある程度は腑に落ちるのではないでしょうか。
特に、ポスト構造主義以降に訪れた、表象の限界(の提示)へのアンチテーゼとして「虐殺の文法」は機能するところがあるわけで、だからこそ、実存主義者としてのウィリアムズは「不条理なものは皆カフカだ」とうそぶくのですし、イアン・ワトスンは『エンベディング』で、神秘主義とニューウェーヴSFの狭間にあるものとして「埋め込み言語」の理論を持ち出したのではないでしょうか。
(追記)
このあたりをもう少し詳しく説明せよ、というご意見をいただきました。いわゆる「ヌーヴォー・ロマン」の作家たちは、スタンダールやバルザックのような書き方を選択することができなかったのです。自分が何かを書くとして、その際に生み出されるものが、書いている「わたし」を規定する所与の条件と無関係ではありえない、というところから彼は出発しています。そうした歴史性をテクストに表出しているうちに、自らの紡ぎ出すものを単なる表象ではなく、表象行為そのものを批評的に捉えることをも含む形で作品化していったのが彼らの面白いところなのです。表象の限界とは、すなわち表象の主体となる人間性そのものが瓦解していた(二〇世紀的な、種々の大戦、殺戮の経緯によって)ことを指しています。そして、表象を批評的に捉えた結果、対象となったものが「言語」の在り方だったのです。世界が言語によって成り立っており、その言語を批評的に塗り替えることを理論化し、ひいては資本と国家の揚棄にまで目論だのが「ヌーヴォー・ロマン」を理論的に支えたテル・ケル派の批評家たちでした。とある偉い先生はテル・ケル派を「マルクス主義と毛沢東主義の悲惨な合いの子」といった意味のことを言っていましたが、テル・ケル派の問題意識をその点のみに還元するのは端的に間違いで、テル・ケル派が理論的な擁護を行なった際、クロード・シモンであれ、アラン・ロブ=グリエであれ、さらにその先へと作品を進めていたわけです。それゆえ、彼らにとっては「表象することなど、実にたやすいわざだった」ということになります。「虐殺の文法」を単なるSF的な小道具としてのみ捉えてしまった際、こうした文学史的な背景が抜け落ちてしまいます。
ニューウェーヴSFは、ヌーヴォー・ロマンと一種の相関関係を有していた運動ではありますが(ジュディス・メリル、ブライアン・オールディスらを見よ)、ヌーヴォー・ロマンのヴィジョンを、さらにメディア論的な批評性をも懐胎した形で押し広げた点に価値があり、『虐殺器官』はそのあたりの成果をうまく取り入れることができています(バラードの言及、伊藤計劃自身のボルヘスからの影響など)。
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