酉島伝法『皆勤の徒』――〈日本的ポストヒューマン〉の脱構築(デコンストラクション)

※本稿は「伊藤計劃を読むためのn冊」(『Genkai vol.3』収録、2013年11月)の再掲である。

 『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』は、序文にある〈日本的ポストヒューマン〉というのが、ひとつのテーマになっている。しかし、このテーマを今ひとつ咀嚼できなかった読者も多いようだ。それでは、そもそも〈日本的〉という形容がつかないポストヒューマンとは何だろうか。


 ポストヒューマンの原理を意味する「ポストヒューマニズム」とは、平たく言えば「人間」を「情報」として捉えるという発想がもとになっている。こうした考え方は、ルネッサンスに提唱され、近代文学が完成させたヒューマニズムを超克しようというもので、ブルース・スターリングサイバーパンクの作家たちの仕事によって人口に膾炙した。今や現代SFにおいて基礎的な発想法にすらなっている。


 ここで難しいのは、単純にヒューマニズムからポストヒューマニズムへという一直線で、その経路を結べるわけではない、ということだ。たとえば伊藤計劃×円城塔の『屍者の帝国』(二〇一二)の「黒幕」たるフョードロフは、史実に登場する人物でもあるが、十九世紀末ロシアの神秘主義に淵源を有するトランスヒューマニズムを提唱したことで知られている。それはポストヒューマニズムの先駆と言ってよいのか。あるいは、ミシェル・フーコーの『言葉と物』(一九六六)の末尾に書かれた「人間の消滅」は、はたしてポストヒューマニズムなのか。


 このように、ポストヒューマニズムには無数の前史があり、その前史を批評的に問い直すことによってのみ、ポストヒューマニズムの批評的な射程は把捉が可能となる(*1)。つまり、我々はすでにポストヒューマンになったのではない。我々の一面はポストヒューマンに片足を入れているが、一方で近代的なヒューマニズムを捨てきれないでいる。つまり、ポストヒューマンの前段階で揺蕩う「亡霊」のごとき存在なのだ。このような複雑な文脈が存在するにもかかわらず、〈日本的〉という呼称をかぶせて現代日本のキャラクター文化を称揚するというのでは、あまりにも浅薄であると言わざるをえない(*2)。とはいえ、限界研の内部でテーマについて侃々諤々の議論を経て、批評家としての価値観が各々異なる書き手の間にて、かろうじて一つの妥協を見たキーワードが〈日本的ポストヒューマン〉であったことは事実である。



 ならば〈日本的ポストヒューマン〉という言葉を、もう少しクリエイティヴに読み替える作業が必要となるのではなかろうか。自身、優れたポストヒューマンSFの書き手でもある上田早夕里は〈日本的ポストヒューマン〉の代表的作品として八杉将司の短篇「ハルシネーション」(二〇〇六)を挙げたが(*3)、この「ハルシネーション」は「動体失認」(動く存在を知覚できないこと)という認知に絡んだ題材を扱ったもので、通俗的な意味でのキャラクター性はとても薄い。しかし「ハルシネーション」を読んだ者は、本作が〈日本的ポストヒューマン〉だと心より納得することだろう(*4)。


 あるいは、翻訳家・SF評論家の大森望は、酉島伝法『皆勤の徒』(二〇一三)の解説において、『ポストヒューマニティーズ』を援用しつつ、同作には〈日本的ポストヒューマン〉の全てがあると喝破した。その詳細は、実際に同作と解説を読み比べていただきたいが、ここでは、テクストの全編に渡って発揮される独特の造語感覚が、「情報」としての「人間」を文体レベルでアップデートしていることを、ひとまず指摘しておきたい。


 サイバーパンクを代表する傑作『ニューロマンサー』(一九八四)の「電撃的な文体」が世間を驚かせてから、ほぼ三十年が経過したが、本年、かくもグロテスクできらびやかな返歌が日本のSF界から投げかけられた。戦後の日本SFは、アメリカSFの翻訳による受容が重要な屋台骨となっているが、海外SFや文学に精通した酉島は、その文体そのものを独自のSFにまで昇華させた。


 『皆勤の徒』の達成を理解するためには、英文学者・柳瀬尚紀が『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳する際の苦労話を紹介した『フィネガン辛航記』や、その柳瀬訳が(訳者のルーツたる)北海道というトポスを表現するにあたってどのような訳語を宛てているかに着目した英文学者・齋藤一の論考「売買川走」が、『皆勤の徒』を理解するにあたって、ひとつの手がかりを提示してくれる。


 『皆勤の徒』はポストヒューマンSFではあるが、その文体の淵源は——イラストレーションに含まれた——遊び心も含めて、北園克衛からはたまたW・G・ゼーバルトに至る諸作品を、ポストヒューマニズムの前史として再読する作業を促すものとして機能する。『皆勤の徒』は、ポストヒューマンSFの伝統へ「日本語」という観点から応答する作品であり、何よりも〈日本的ポストヒューマン〉の通念を内側から破砕し、その原理を刺激的に再構築する快作である。(岡和田晃



(*1)詳細な議論については、拙稿「文学の特異点——ポストヒューマニズムの前史のために」「科学魔界」五〇号所収、科学魔界、二〇〇九、を参照されたい。

(*2)ここでの「キャラクター」批判について、詳細は拙稿「「世界内戦」下の英雄(カラクテル)——仁木稔『ミカイールの階梯』の戦略』」、限界研編『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』所収、南雲堂、二〇一〇、を参照されたい。

(*3)筆者による取材に基づく。

(*4)「ハルシネーション」のパースペクティヴを、その後継作たる『光を忘れた星で』にからめて論じたものとして、拙稿「意識が消滅した者との共生は可能か——八杉将司『光を忘れた星で』を読む」(『「世界内戦」とわずかな希望』収録)を参照されたい。

皆勤の徒 (創元日本SF叢書)

皆勤の徒 (創元日本SF叢書)

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF