伊藤計劃『ハーモニー』小論


 22日、HJコンから帰宅したら、癌で闘病中だった伊藤計劃(id:Projectitoh)さんが亡くなったとの報が届いていた。享年34。あまりにも早すぎる訃報に頭がくらくらした。
 この人は、いまだ『虐殺器官』、『メタルギア・ソリッド・ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』、『ハーモニー』の長編3作、「The Indiffernce Engine」、「From the Nothing, With Love.」の短編2作と数本のエッセイしか書いていなかったはずだ。現在は「『ドラキュラ紀元』風」の新作を構想中だったとの話を小耳に挟んでいただけに、言葉も出なかった。


 そっと胸に潜めておこうと思ったが、間もなくWeb上の各所に訃報が流れ始めた。
 複数の人より伝え聞くところによると、結構な弔問客が訪れているらしい。


 しかし先月、速水螺旋人さんとご一緒して、病院へ伊藤さんのお見舞いに行った際には、ご家族はかなり疲弊しておられた。また、香典の類はお断りしているとのことである。義理不義理が生じるといけないので、家族葬にするという話だ。
 それゆえ、無理に押しかけて先方を疲れさせるよりも、この場を借りて感謝の念を表明するべきだと判断した。私の小論は荒削りで拙いものだと自覚していますが、とりあえず書くことが大事であると考えました。伊藤さんを愛する人はぜひご自分のやり方で作品を思い出して下さい。


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 『虐殺器官』を一読して、彼は間違いなく天才だと感じた。
 なぜ天才なのかというと、彼は世界に向き合うための方法を持っていたからである。
 その意味で、彼は他のいかなる同時代の作家よりも優れていた。


 その方法とは何かを語るためには、しばし私事を挟まなければならない。
 あまり憶えていないが、私が伊藤さんと知り合ったのは、確かジャック・ウォマックアルフレッド・ベスターの小説を介してだった。
 その後、機会に恵まれ、幾度か酒を酌み交わし、SFや映画、現代思想やゲームなどについて話した。イベントなどでも何度もお会いしたが、その際にも、気安く接していただいた。とても話しやすい人だったのだ。
 ある時、『虐殺器官』を読んで、彼がかなりの(サイバーパンクRPGの)『シャドウラン』のマニアなのではないかという匂いのようなものを感じた。率直に疑問をぶつけてみると、『シャドウラン』はさほど知らないが、『ウォーハンマーRPG』(ダークファンタジーRPG)や『ギア・アンティーク』(スチームパンクRPG)は好きだった、という答えが返ってきた。
 現在でも時たま伊藤さんが共通の知人とボードゲームを遊んでいるということを知っていた私は、思い切ってホラーRPGクトゥルフの呼び声』のRPGセッションに伊藤さんを誘ってみた。すると、二つ返事で快諾をいただいた。その時のプレイヤーには佐藤亜紀佐藤哲也夫妻をはじめとした豪華な面子が揃っており、思い返せばすさまじい会合であったと言うことができる。
 その後も折りに触れて馬鹿話を語り合ったものだった。


 なぜRPGの話をしたのか。それは私がRPGライター/翻訳者だからというためではない。作品を読み、一緒に話し、そして卓を囲むに至って、確信させられたことがあったからだ。それは彼のサイバーパンク魂である。


 かつて、コンピュータ・テクノロジーの進化を軸に、サイバーパンクSFやロールプレイング・ゲームが、メディアと文化、そして社会をラディカルに変革すると信じられていた時代があった。
 巽孝之の『サイバーパンクアメリカ』にて記録されている、そしてブルース・スターリングが「80年代サイバーパンク終結宣言」で自ら引導を渡した、単なるエンターテインメントの一ジャンルではない、ラディカルなムーヴメントとしての「サイバーパンク」である。
 ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』や、ルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』、そして何よりアンソロジー『ミラーシェード』に顕著なように、人間と機械、性差と性の同一性、有機体と生成物、実在と情報といったような、相反する要素、すなわちヒューマニズムとポスト・ヒューマニズムがただ対立するのではなくお互いが混じり合い、ヘーゲル的な止揚の経緯を経ることで、いまだ誰も見たことがないフロンティアを希求するということができると思われていた時代の熱気。


 彼はそうした時代の熱さを確実に体現しており、なおかつエピゴーネンの枠を越え、方法にまで高められたレベルで「サイバーパンク魂」を継承することに成功していた。
 その意味で、彼はまさしくポスト・サイバーパンクの旗手であり、サルトル流の実存主義が永遠に到達しえない地平から、世界を見ることができたのである。


 我々は「部分社会」に籠もっている。そこでは、この世界には表層しかなく、そこに生きる人々はぬるま湯の中でささやかな連帯にしがみついているように見える。
 さりとて表層を生きるのは難しい。表層から振り落とされた人々は、さながら詰め込まれた動物が共食いをするように殺されるか、あるいは貧困のもとに居場所を失い、犬のように無惨な死へと追いやられることとなる。


 だが一方で、イラクでは、ソマリアでは、ダルフールでは、チェチェンでは、チベットでは、パレスチナでは、人間性をものともしない殺戮が続いている。「部分社会」を呑み込む「圧倒的な暴力」がある。
 我々は安寧に暮らしつつも、その暴力を直視することができない。矛盾に引き裂かれている。どちらの社会に身を置いていても、姿の見えない暴力としてのシステムに引き裂かれることは共通しているのだ。


 こうした得体の知れない暴力を言葉で表現しようとすると、どうしても隠喩に頼らざるをえない。個人とシステムを「卵」と「壁」に準えた、村上春樹イェルサレム賞受賞講演が好例だ。
 しかし、下手に隠喩を使うと、肝心の暴力の本性は覆い隠されてしまうということがまま、ある。結局のところ、無難で、ネタとして消費されて終わるものとなってしまう。 そこで必要になってくるのが技術だ。
 彼はウィリアム・ギブスンブルース・スターリングがそうであったように、自意識と高度情報化した社会をたやすく接続させることができた。それでいながら、動物のごとく飼い慣らされるのではなく、犀利な批評精神を失わなかった。
 あくまでもヴェールのこちら側に居続けることで、我々の狭い世界と、全体性としての世界を蹂躙する暴力、その両極を暴き立てたのだ。それができるのは、彼がサイバーパンクの技術を心得ていたからである。


 『ハーモニー』を初めて読んだ際、慄然とした。構造が剥き出しの文体は半ば必然のゆえであるが、全体に充溢する死の臭い、そしてコードウェイナー・スミスを思わせる身体性の完全な欠落に驚かされたのである。
 むろんそれは意図されてのものだ。例えば『ハーモニー』のなかには、ヌァザなる人物が登場する。これはまず間違いなく、ケルト神話の「銀の腕のヌァザ」をモティーフにしている。
 私の知っている限り、「ヌァザ」について本格的に言及している日本語の文献はひとつしかない。それは健部伸明の『虚空の神々』だ。『虚空の神々』は、ケルト神話の原典を果敢に収集し、なおかつ神話の精神を組み込み物語として再構築することに成功した希有な書物であるけれども、『虚空の神々』で記されたような圧倒的な神話的・土俗的な生の力、それは言わば小説の土台を支える屋台骨として機能するのである。
 他にも、ミシェル・フーコーの生政治、ビッグ・ブラザーを思わせるアーキテクチャとしてのWatchmeなど、作品の構造を外部から補強するための間テクスト的な要因には事欠かない。だが、それらは『ハーモニー』というテクストの内部に組み込まれた際、既に半ば記号と化してしまっている。いや、むろん言葉はすべて記号であるが、記号が指し示す対象へと届かない仕様になっているのだ。記号が指し示す神話や土俗、あるいは思想のあれこれは、『ハーモニー』のテクスト内に取り込まれたが最後、すべてゾンビと化してしまう。


 『ハーモニー』のテクストには豊富に、etml言語が登場する。短編「Indifference Engine」では、ゼマ族とホア族という名前を用いることで、イアン・ワトスンの『エンベディング』でも取り上げられている埋め込み言語(『エンベディング』では「ゼマホア語」)の例が発想の下敷きにあると、間接的に示唆されていた。
 そして『ハーモニー』においては、このetml言語はそれがより環境管理的な要因として顕在化したと見ることができる。記載されたタグのそれぞれは、書き手と読み手の感情を統御するという役割を担わされているという。それはこうした「記号」をめぐる状況に、テクストがいかに自覚的であるのかをよく表している。


 確か『虐殺器官』が小松左京賞だったか、それとも日本SF大賞だったかを落選した時の選評として、「人間が書けていない」という批判があったように記憶している。
 だが、大きな声で言おう。こうした指摘はナンセンス極まりない。
 彼は最初から、大文字の「人間」なぞ書こうなどとはまったくしていないのである。19世紀小説的な色彩の強い『メタルギア・ソリッド・ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』でさえそうだ。彼が描いているのは一貫して、ハラウェイの言うような「サイボーグ」にほかならないからだ。
 そして「サイボーグ」たちは、ウィリアム・ギブスンが『カウント・ゼロ』で示したように、ゾンビの待ち受けるサイバースペースへ、果敢にもジャック・インしていくのである。
 『ハーモニー』では、その傾向がさらに顕著だ。読み手はもはや、このテクスト内に「人間が書かれていない」ことを受け入れずしてテクストを読み進めることは適わない。こうした「人間」の不在を前提に、先に述べたような「ぬるま湯」としての「部分社会」と、チェチェンに代表される「圧倒的な暴力」とは『ハーモニー』のなかで文字通り〈調和〉を見せる。その先には大いなる破滅としての、至上の昇華が待ち受けている。


 単なる情報小説でもなく、単なる自意識を描いた私小説でもない。「サイバーパンク」の技巧によって、隠喩の枠を越え、『ハーモニー』は両者を統合することに成功した。
 むろん、完成されているわけではない。『ハーモニー』のテクストは完成を拒んでいる。それは必然的なものだ。なぜか。完成されてしまったが最後、それは完全な〈調和〉に繋がってしまうからだ。〈調和〉したが最後、世界は進歩も後退もしなくなる。すなわち昇華の結果、停止してしまうのである。


 電車のなかで、『ハーモニー』のテクストを追いながら、こうした過程を呑み込んでいくうちに、なんだか冷や汗が出てきた。寒い時期だったので、家に帰るまでに見事に風邪を引いた。実際に熱こそ出なかったものの、知恵熱のように体調がおかしくなった。


 いま、その時の熱のようなものがぶり返しつつ、ただ思うのは、無念でならない、ということだ。
 そして、彼が「『冥福を祈る』という言葉が嫌い」だと言っていたことを思い出す。その替わりに「ありがとう」と言うことにしていると。
 でも私にはなぜか「ありがとう」と言うことが憚られてしまう。自分がさながら何かをわかったかのように、彼に「ありがとう」と言えるだけの器だとは思えないのだ。
 それゆえ私は、勝手ながらこう思い込むことに決めた。
 彼はおそらく『ニューロマンサー』のケイスのように、マトリックスの向こうに潜むウィンターミュートと戦っている。そうに違いない、と。


 そう言えば、伊藤さんとアンドレイ・タルコフスキーの映画『ノスタルジア』について話したことがある。私がこのブログにエントリを上げた前後の時期のことだ。


ノスタルジア
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20080807


 『ノスタルジア』のモチーフは、ドイツ・ロマン派的な心性から採られていることが多い。それゆえ『ノスタルジア』は、往々にして胎内回帰的な印象で語られる。
 私はこのような見方に半ば同意しつつも、もう半ばでは違和感があった。
 そのような疑問をぼやいた際に、伊藤さんは以下のように話してくれた。

わたしはむしろ、
ろうそくの場面とか
胎内を追い出された荒野で(水のない温泉)、
恐ろしく過酷な方法を用いて、
わずかな希望を見いだす映像だと思ってました。

・ろうそくの場面


 思い返せば、『ノスタルジア』の映像の繊細さは、どこか伊藤さんの小説に相通ずるところがある。
 この話をした時期は、おそらく『ハーモニー』の脱稿前後であったはずなのだけれども、そのことを差し置いても、伊藤さんが『ノスタルジア』の解釈で示されたような「恐ろしく過酷な方法を用いて、わずかな希望を見いだす」という姿勢が、どうしても彼自身の孤独な戦いと重ね合わさってしまう。


 あああ、悔しくてたまらない。

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

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