ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』についてのノート


 「〈ターボ・リアリズム〉の旗手」「新刊が、新作ビデオゲームよりも売れる作家」「ロシアの村上春樹」「SFと純文学の垣根を破った作家」など、毀誉褒貶甚だしいヴィクトル・ペレーヴィン、現時点での最大規模の長編。映画化も予定されているという。
 日本におけるロシア文学出版の泰斗である群像社も、他の書籍とは別格だと任じているようで、非常に気合を入れ、2000円という破格の安値、かつ立派な装丁で翻訳・刊行の運びとなった模様。素晴らしい。群像社、万歳!


 ペレーヴィンについては、以前『恐怖の兜』のノートを記したことがある。
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20070108


 そして、今回取り上げる『チャパーエフと空虚』は、『恐怖の兜』にも繋がる問題意識が垣間見える。それは、疎外された者たちの姿を、現代社会という背景設定に相応しくアップデートを加えたうえで描き出すということだ。


 マルクス主義の伝統で〈疎外論〉というものがあるが、学問としてのマルクス研究が汗牛充棟を極め、制度としてのマルクス主義がほぼ崩壊を見て久しい昨今、学問として、あるいは制度としての〈疎外論〉から、学問や制度というフレームから取り払われてしまった結果、〈疎外論〉が理論的な裏づけを行ない政治的に支援を与えるはずだった「人間」というものが、いったいいかなる立ち居地に置かれてしまったのかということを、ペレーヴィンは痛烈な筆致で抉り出す。
 その作品が、日本で現状体験することのできるエンターテインメントよりも遥かにポップで、また遥かに刺激的であり、同時に遥かに奇妙であるというのも、日本という生ぬるい環境よりも、(ペレストロイカ以降の市場経済導入と、社会主義の崩壊による混乱を経験していることから)ロシアの地においては動乱の度合いが激しく、裸の「人間」の姿がとかく見えづらくなっているからではないか。
 いずれにせよ、ペレーヴィンの小説が不可解かつ魅力的な相貌を身にまとわせているのは、こうした問題意識を真摯に小説の形式へ反映させているからだと言ってしまって、間違いはあるまい。


 『チャパーエフと空虚』の中心として描かれるのは、1917年にレーニンらが起こしたロシア革命「以降の時代」、ソヴィエト政権軍(赤軍)と、諸外国の支援を受けた反革命軍(白軍)との闘争下の状況である。
 こうした状況を扱った同時代のレポートしては、アメリカの雑誌記者ジョン・リードが書いた『世界をゆるがした十日間』がある。また、舞台こそロシアではなくウクライナだが、ロシア革命後の状況の本質を最も的確に掴んだ著作として、緻密な考証をもとに、同時代の混迷を極める人間の獣性が剥き出しになるような状況を果敢に描いた、佐藤亜紀の『ミノタウロス』が存在する。


 しかし、『チャパーエフと空虚』においてのペレーヴィンは、ジョン・リードのようなジャーナリスティックな実証性も、あるいは佐藤亜紀のように小説というジャンルの有する特性を把握したうえで、造形的かつ構築的な方法も採ることはない。ペレーヴィンは、あくまでも観念の人なのである。それゆえ、作品は何重にも入れ込んだ構成のメタフィクションとなっている。
 観念と小説は相容れないというのが通説ではあるが(それを果敢にも試みたフリードリヒ・シュレーゲルの『ルツィンデ』や、ジャン・パウルの短編などは、個人的には好きだが、失敗作と断じられても反駁できないところがある)、唯物的に語らなければ伝わらないことがあるのと同じように、観念的に語らなければ理解できないこともまた、存在するのは確かだろう。
 事実、観念性の極限とも言える「ドイツ観念論」と、「もの自体」を言葉のレベルから問い続けた「ヌーヴォー・ロマン」が本質的に同様の主題を追いかけているということは、もっと知られてもよいはずだ。


 『チャパーエフと空虚』は、ロシア革命の状況下における実在の英雄であるドミートリィ・チャパーエフと、主人公ピョートル・プストタ(プストタとは「空虚」の意)との関係性が物語の中心として描かれるが、プエスタは戦時下のロシアでチャパーエフを支援しながら、同時に精神病院に収容された患者でもある。
 すなわち、プエスタの戦時下の活躍はあくまでも夢であり、チャパーエフとの共闘を語ることは、「私はナポレオンだ」と主張することと、ほとんど違いはない。
 それどころか、収容者たちは、それぞれが集って(さながら心理学のセッションのごとき様子で)互いの話に耳を傾け、語られる白昼夢に同調しながら、同時にその白昼夢が単なる夢に過ぎないという事実を突きつけられることで、夢は否定されるべきものとして立ち上がってくる。
 セッションの参加者は、当然、別の参加者が語った夢のモティーフに、セクシャルな象徴や、日ごろの抑圧の結果(精神病院の職員セルジュークが「切腹」させられたりする)を読み取るわけだが、面白いのは、こうした精神分析的なロールプレイングゲームともいうべきセッションを繰り返しているうちに、いつしか語られた白昼夢が現実を侵食してくるということだ。さながら荘子が語る「胡蝶の夢」のごとく、どちらがどちらにいて誰が本当に夢を見ているか、その境界線上がわからなくなってくるというわけだ。


 こうした「夢」の扱い方は、どこかアーシュラ・K・ル=グィンの傑作『天のろくろ』(長らく入手困難だったが、最近、ブッキングから復刊した模様)を思わせるものであり、西洋的合理主義の行き詰まりを東洋哲学を導入して打破しようとする、19世紀におけるドイツ・ロマン派の挑戦以降、何度も果敢に繰り返されてきた試みに近いものがある。

 
 小説における「夢」の扱い方のほかにも、それぞれの「夢」のパートの虚構性にも興味深いものがある。本文において、かなりの分量が割かれているプエスタとチャパーエフの戦記は、細部の詰めが、考証に失敗した小説や映画のごとくに揺らいでおり(加えて、当時、「チャパーエフもの」の決まり文句として流行したという「チャパーエフ・アネクドート」も随所に挟み込まれている)、その意味で、日本で言えば奥泉光や久間十義の描く「虚構の歴史小説」に近いものがあるかもしれない。


 ここで面白いのは、こうした「夢」自体の虚構性と、「夢」と「現実」との間の関係性の行き着く先が、結局のところ「虚構」そのものでしかないということだ。
 「夢」と「現実」との関係性を、理知的な言葉で語った者としては、ノヴァーリスフリードリヒ・シュレーゲルを初めとしたドイツ・ロマン派が思い浮かぶ。しかし、ドイツ・ロマン派の思想家たちが、「夢」を通して「現実」を昇華させようとしたその先が、結局のところ原始カトリック的な「神性」であったのに対し、ペレーヴィンの「空虚」は、文字通りまったくの「空虚」である。
 ドイツ・ロマン派、とりわけゲーテは、「人間」と切り離された「自然」を統御する法則として「根源現象」が存在すると論じたが、こうした「根源現象」の代わりに「空虚」が存在するとしたら、わかりがよくなるだろうか。もっとも、「神性」や「根源現象」と「空虚」は必ずしも相対立するものではなく、ドイツ・ロマン派の思想家たちが、インド哲学に代表される東洋思想を導入し、西洋的なロゴスの再構築に乗り出した際、喜んで用いるであろう(禅における)「空」の概念に近いものがあるのではないかと思う。


 ともあれ、こうした「空虚」を中心とした状況が、このうえなく明晰で、かつ狂気と喧騒を孕んだ筆致で描かれていること。それが、『チャパーエフと空虚』の魅力である。ペレーヴィンが代表しているという〈ターボ・リアリズム〉というジャンル(単なるリアリズムでは飽きたらず、フィクションに「速度」を導入することで、時代に負けない新しい形を模索するという試みのことだろう)は、衰退して久しいと言われているが、仮に〈ターボ・リアリズム〉なる胡散臭い呼称が忘れ去られたとしても、ペレーヴィンの試み(と独自の立ち居地)は見過ごされるべきではない。


 いっそのこと、このまま時代の波に飲まれて消費され消えてしまうくらいならば、筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』や、先に述べた奥泉光・久間十義などと抱き合わせて、胡散臭さとともに〈ターボ・リアリズム〉を復活させてしまった方が、面白いかもしれない。
 胡散臭さの先には「空虚」しかないのであれば、精一杯楽しみ続けるしかないというわけだ。ペレーヴィンのメッセージはなかなか悲壮である。それでいて、シニカルでもないのがまた楽しい。
 ……いや、次作、とりわけ『ジェネレーションP』などでは、またアプローチが異なるのかもしれないので、早急な評価は避けたほうが無難だろう。


 余談だが、この作品は結末が冒頭へループするようになっている。ただ、そのループの仕方はテクニックとして絶妙なので、ぜひ見てほしい。


※2012/03/04 読者の方からのご指摘により、一部修正しました。

チャパーエフと空虚

チャパーエフと空虚