下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ』


 下村寅太郎の『スウェーデン女王クリスチナ』を読みました。
 下村寅太郎西田幾多郎の弟子ですね。戦時中に開催された〈文学界〉誌の有名な「近代の超克」論争にも参加しています。『アッシジの聖フランチェスコ』『近代科学史』などが特に知られているようです(後者は特に面白かったです)。


 早稲田通りの文英堂書店という古書肆にて、『クリスチナ』の単行本を見たことがあります。
 ご丁寧に、なかには「献本」の札と、一筆箋が入っていました。「入院から回復しました。これから精力的にものを書いていきます」との主旨でした。明らかに下村本人のものです。その文字や文面からは、誠意が滲み出ていました。


 そのような誠意は、『クリスチナ』そのものにも共通のものでした。謎多き女王について語るとにかく文章そのものに品格があり、素晴らしかった。
 評伝というジャンルは、ともすれば著者の理想や妄念が投影されすぎいて、不気味なものになりかねないところがあると思うのですが、『クリスチナ』に関してはバランス感覚が絶妙で、イデオロギー的なぶれが少なかったというところが、非常に面白く読めました。


 そもそも西田幾多郎の哲学は、明らかに西洋合理主義を超克しようとしているところがあるように思います。そして西田哲学とも根底で共鳴するところのある「宗教から政治へ」「魔術から科学へ」というパラダイム・シフトについて、下村は考えていたのではないかとも思えます。
 そのようなパラダイム・シフトのポイントについて、上滑りさせてシニカルに描くのではなく、「人間」という具体的な形を通し、力強い、ある意味、苦難のなかの近代人の先駆けとして描いたのが下村のクリスチナ像で、あらかじめ、スキャンダラスな説もあると防衛線を貼っておいて、畸形化された(現代の症例とも言うべき)悪しき意味での「キャラクター」ではなく、「人間そのもの」を写し取ろうとする姿勢に痺れました。


 おそらく、かような叙事詩的近代人とも言うべき矛盾した称号を与えたくなるような人物造形は、いまの日本では決して描き出すことができないでしょう。
 筒井康隆は対談で「19世紀のロシア小説のモデルとなったような人物たちは漫画のキャラクターみたいな大胆かつ突飛な行動を、実際にしていた。つまり、それがリアリズムだった。誇張しているわけではない。それくらい変な奴が大勢いた」との旨を述べています。
 こうした「変な奴」については、プーシキンドストエフスキーの作品を読めば垣間見ることができますが、『クリスチナ』はそれとはまた違う、威容と風格を漂わせた高貴ともいうべき人物造形に成功していました。『クリスチナ』を読むまで、高貴なんて言葉は、半ば死語ではないかと思っていました。ただそれでも、著作の全体から漂ってくるバロック時代に特有の屍臭は消えないのですが……。


※追記:この本は、『混沌の渦』の資料としても秀逸です。もちろん『ウォーハンマーRPG』にも役立ちます。