『真珠の耳飾りの少女』についてのノート


 トレイシー・シュヴァリエの原作は未読。フェルメールの代表作である表題作の絵画が製作されるまでの逸話を丹念に描く。
 絵画や芸術の「内面」を主題にした場合、例えば(とりわけ近代以降の小説であれば)、地の文に「内面」を溶け込ませることが(比較的に)容易であるがため(近代文学、とりわけドイツには「芸術家小説」とも呼ぶべきジャンルがある。トーマス・マン、ホーフマンスタール、ヴォルフガング・ヒルデスハイマーなどを参照されたい)、構成を立てやすいのではないかと思うのだが、映画という「動き」が命のメディア、それも17世紀のネーデルランドという特異な舞台背景では、かなり苦戦するのではないかと不安だった。
 いや、率直に言おう。フェルメールが好きなので、イメージが崩されないか心配だったと言うのが正しい。DVDを借りるまで、相当な迷いがあった。


 しかし、実際に観てみるとこれが意外に痛快で、笑ってしまうくらい「セットとして」忠実に、「フェルメール的」と言うしかない(「レンブラント的」と言うのとはまた違うだろう)情景が再現されている。
 こうした「フェルメール的」な光景は、あまりにも生真面目に「フェルメール的」であるがため、かつて日本で開催されたフェルメール展にて《牛乳を注ぐ女》や《絵画芸術》などの絵画作品を食い入るように見入ったことのある身にとっては、ここでの、愚直な試み(絵画を映画で再現しようという儚い努力とでも言うべきだろうか)を前にすると、なんだかむず痒い気分になってきて(アレルギーというほどでもないが)、それゆえつい、笑ってしまいそうになるのである。


 もちろん、いたずらに芸術家や少女の「内面」を陳腐な言葉に落とし込まないだけの慎み深さを製作陣はきちんと持っているようだ(その意味で、少女の彼氏を肉屋の息子に設定したり、少女の破瓜のシーンが馬小屋であるというのは喝采を送りたい。『ウォーハンマーRPG』とか『混沌の渦』みたいだし)。
 とりわけ、一見、プラトニックな恋愛譚を装いながら、その先にある最も重要な部分は、文盲の少女との絵画の具材を通しての交流から、「言葉」ではなく「色」を通して繋げようとする場面など、かなり好みである。インテリに色目使って逃げてしまわないと言うか。演出が繊細すぎないのも心地よい。

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]

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