「世界内戦」について


 「世界内戦」について私が何を考えているか興味のある方がいるようなので、簡単にノートをしておきましょう。あくまでもノートなので、言葉や考証は厳密さを欠いています。あしからずご了承下さい。



 「世界内戦」とは、ごく大ざっぱには「戦争」については21世紀型の戦争、という形でよいと思ってます。20世紀の「世界戦争」=国家間の殲滅戦としての戦争の延長線上にある、正確に言えば、21世紀、特に9.11が顕在化させたある種の「例外状態」(アガンベン)。
 個人的には事実上、いまの日本は戦時下にあると言ってもよいのではないかと思っています。
 もちろん日本は広義の交戦状態にはありません。今のところ、どこの国にも公法的に宣戦布告をされていません。が、9.11は、国同士が直接に交戦権を発動させずとも、国家とは直接結びつかないテロがすぐさま世界戦争へ、しかも大国の小国への粛清的性格を含む、内戦的な構造へ直結してしまうということを露わにしました。
 昨日の「東京SF大全」にも書きましたが、9.11からしばらく、渋谷などのゴミ箱がテロ警戒で一斉封鎖されていたことを思い出します。そうした状態は別に終わったわけではなくて、先日アメリカ大使館の前を通りがかりましたが、警戒が緩められている感じがまったくしません。


 テロが直接戦争へ結びつく、というのは、国家レベルの意思決定を介さずとも容易に(ジョン・ロックの言う)自然状態とは異なる戦争状態が噴出してしまうという意味で、特異な状態だと思います。これは第一次世界大戦の時とも(サラエボ事件はあくまできっかけにすぎなかった)、冷戦時代の大国間の政治的ゲーム的な構造とも異なっているのではないでしょうか。


 国家レベルの宣戦布告を介さないテロが(イデオロギー的な部分を不透明にしたままで)日本という国家を揺るがした最も大きな事件は、日本ではオウム事件だったと思います。
 オウム事件によって、日常が自然状態ではなく戦争状態だということを再確認させられたのではないでしょうか。これと「失われた10年」や小泉政権下の政治的事情などは、基本的には表出されるものが違うだけで根っこは同じなのではないかとそして、それが日本というムラ社会だけではなく、世界的なレベルで起きていたとわかるのが9・11だと思っています。
 ボードリヤール的なすべてが偽物化しているというレベルから少しはみ出て、偽物が自立して本物になってしまっている、新たな公法秩序を獲得してしまっているイメージです。日本の文芸シーンとかまさにそうですね。


 なので「帝国」による一国支配がリーマン・ショックによって凋落している今、村上春樹が、さながらバブル崩壊後にオウム事件が起こった様子をなぞらえるように、明らかにオウム的なものをモチーフにした『1Q84』を書いてしまう、ということは私には納得がいくことです。しかしながら『アンダーグラウンド』のような、「到達不能な戦争」とはまったく縁遠い日常化したテロルを描写した作家がなぜあんなに意図して陳腐な構造を取るのかということについては、非常に不気味と言うほかありません。


 そもそも「戦争」というのは自然とは異なる人為による暴力の衝突行為であり、それゆえになかなか言葉では明示できない。従軍体験記などにおいても、実際の戦闘行動は恐ろしく類型化されて書かれています。だからゲーミング・シミュレーション(戦争の在り方のシミュレート)の伝統では、言語ではなくあくまでもシステムという形でそれぞれの戦争の特異性をモデル化する方法が取られてきました。
 クラウゼヴィッツが『戦争論』で「戦争とは別の手段の政治の継続である」と言いましたが、この定義はけっこう苦しい。政治史を通してしか戦争の変遷や特性は語れないのではないかと思います。クラウゼヴィッツを暗に批判したジョミニの『戦争概論』は、クラウゼヴィッツよりも社会科学的ですが、徹底した技術書の体裁を取っています。生々しすぎて、哲学の言葉ではどうしても戦争は語ることはできないのでしょうか。


 大竹弘二さんは『正戦と内戦』で、カール・シュミットが「世界内戦」という概念を実は二次大戦中から構想していたと書いていました。
 大竹さんは、シュミットが「規範・フィクション・概念」だった政治を国際連盟時代のヨーロッパ公法秩序へ拡大させていきますが、そのルートを検討し直すことで、フィクションがカッコなしの戦争とどう取り結ぶかを問い直すかを厳密に吟味できるのかもしれません。
 こうした吟味の方法として、社会史的な観点をうまく取り入れられないか、そうすればフレームワークにつきまとう、ある種の乱暴さを軽減できつつ、一定の普遍性が持たせられるのではないか、とぼんやり考えていたりします。


 ジャン=クロード・シュミットなど、フランスのアナール学派第4世代とも言うべき歴史家たちは、盛んに「近代」概念の原理的な問い直しに進んでいます。例えば『中世歴史人類学序説』という本では、近代の発明だった無意識すらが、12〜3世紀にはすでに存在していたと明かしています。彼らの多くは、フランス革命から発する近代の限界を、近代のオルタナティブを考察することで問い直そうとしています。
 ここに経済論も接続できるはずで、アナール学派の始祖のブローデルなど、それまで戦争と政治史のみで理解されていた近代の出発点=16世紀、フェリペ2世の時代を、経済の循環の動的ダイナミズムを取りだす形で記述し直しました。


 私はゲーム(RPG)が専門なのですが、もともとRPGの源流としてのウォーゲームというものは戦争を通して発展してきたところがあります。
 飽食の時代の大衆文化として顕現する前に、状況の変化をいち早くモデル化できるところがあった。近代の源流である、そうした地平まで踏みこんで考えられないかと夢想しています。
 パーラの『無血戦争』などはその意味で非常に優れた文献で、ウォーゲームと実際の戦争との関係性を、17世紀にまで遡る形で論証しています。
 高橋志臣氏が優れたノートを作っておられるので、この機会にご紹介しておきます。http://d.hatena.ne.jp/gginc/20090330/1238410142


正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想