蔵原大さんの"The Grand Strategy of Philip II”レビュー


 以前も記事を紹介させていただいた、蔵原大さんの“The Grand Strategy of Philip II"のレビューがとても面白かったので、こちらで紹介させていただきます。なかなか原書を読むのは歯ごたえがあるものですが、これを気にトライしてみたいと思わされる魅力的な紹介だと思います。
 以下、蔵原大さんのレビューになります。

The Grand Strategy of Philip II

The Grand Strategy of Philip II

 『フェリペ2世大戦略』( The Grand Strategy of Philip II )は、「軍事革命」(military revolution)の研究者として高名なジェフリー・パーカーの手による、近世ヨーロッパのスペイン帝国に君臨したフェリペ2世の行政手腕を通じて大国の「戦略文化」とその効能を分析した研究書です。内容はもちろん近世史ですが、近現代の戦略を研究する諸氏からも大いに注目されるそのわけは、本書が「なぜ歴史上の超大国はどれもこれも永続できなかったのか?」という普遍的問題を探求しているからでしょう。有り余る金銀人地に恵まれていたはずのスペイン帝国が、イギリス、フランスなどヨーロッパ各国を敵に回して戦い疲れたその衰亡の過程については、ポール・ケネディ『大国の興亡』、マーレーら共編『戦略の形成』でも詳しく論考されていましたが、その謂わば集大成的な存在が『フェリペ2世大戦略』です。戦略学や近世史のみならず政治史、経営学などにも応用できる材料に富んでいることからして、邦訳が待たれる所です。


 本書が強調するのは、超大国が直面する戦略上のジレンマ、すなわち超大国は多くの資源、多くの利権を得てその地位を保全しているが故にその護持にやっきになって戦略上の柔軟性を欠き、ときには撤退して重要な地点に力を振り分けた方がいい場合であっても、手持ちの資源を失うのが惜しくて負け戦を続ける、という状況の皮肉さです。書中には例えば「人々が政策というものを組み立てる個々人は、大抵の人がそうするように物事を利点だけでなく利益と損益の観点から考察する。もっとも、人の精神は損と得とを対等に見なしはしない。逆に、大抵の人は利益を得るためにではなく損するのを避けるために大きな危険を冒しがちのようである」(*1)という一文がありますが、つまりは「ドカ貧を恐れてジリ貧になる」道を選ぶ戦略文化はなぜ正当化されるのか、『フェリペ2世大戦略』はその問いに対する一つの答えを示しているように思えます。そこが、本書が単なる事例研究に留まらない普遍的な価値を備えている所以といえましょうか。


 ところで2008年9月、科学誌『サイエンス』にある論文が載りました。「高値の付けすぎへの理解:合理的競売を設計するための報酬に関する神経回路の活用」(Understanding Overbidding: Using the Neural Circuitry of Reward to Design Economic Auctions)と題された行動経済学者と脳科学者の合同調査報告書は、旧来の合理的観点から組み立てられた経済理論への反証として、人の行動とは「勝利の喜び」(joy of winning)ではなく「危険の回避」(risk aversion)からでもなく「敗北への恐れ」(fear of losing)によって誘導される傾向にある、と評しています(*2)。簡単にまとめれば、競りの参加者は単に賞品を得たいからではなく、賞品を得るために投じたお金や時間に見合った何かを得たいがために、賞品本来の値打ちを上回る額の金を投じる事さえ辞さない、ということなのです。競りの参加者の脳をMRIで検査した末に導き出された結論の信頼性はともかく、歴史上の大国がどうして負け戦にこだわって戦力を逐次投入したのか、その問いにこれまた一つの答えが示唆されているといえましょう。


 かつて日本帝国は中国大陸における利権を保持すべく、それに反対するアメリカ合衆国と争って国家的破産を体験しました。そのアメリカは今イラクから撤退し、アフガニスタンでは泥沼の戦局に喘いでいます。振り返って日本を思えば尖閣諸島竹島、千島列島などの領土問題で周辺諸国と齟齬を来たしています。大国はなんのために、どこに、どのくらい、いつまで資源を投入すべきなのでしょうか? ワシントンや東京が灰燼に帰しても、アフガンや竹島は死守されるべきでしょうか? 『フェリペ2世大戦略』を読んでフェリペ2を嘲笑する人は、いずれ後世に同じく嘲笑されるのでしょうか? ここから先は読者御自身で回答をお願いします。


    塗に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。
   地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。

                           ―『孫子』「九変篇第八」―


【脚 注】
(*1) Geoferey Parker, The Grand Strategy of Philip II (Yale University Press, 2000), p.283
(*2) Mauricio R.Delgado, Andrew Schotter, Erkut Y. Ozbay, Elizabeth A. Pehlps, "Understanding Overbidding: Using the Neural Circuitry of Reward to Design Economic Auctions", Science (Vol.321, Number 5897, 26 September 2008, American Association for the Advancement of Science), p.1852.

――――――――――――――――――――――――――――――――――


(蔵原大)