クリストファー・プリースト『魔法』


 積んであったクリストファー・プリーストの『魔法』を読む。
 『SFマガジン』に若島正訳で出ていた(『双生児』執筆のための読書メモである)『戦争読書録』があまりに面白かったので、いかん、『双生児』読まなきゃ現代文学/SF者的にダメだろう。それにはまず、積んであった『魔法』を片付けなくちゃ、ということと相成った次第である。


 前半はローペースだったが、いかにもプリースト的な展開、すなわち●●●●(注:ネタバレのため伏字)の話になってきてからは俄然興奮する(蛇足だが、解説読んで、僕はチェスタトンが●●●●ネタを書いていたのを初めて知った)。
 加えて、後半の3Pシーンになってきて、作者のバカSF者(褒めてます)ぶりに眩暈がした(後輩曰く、「『魔法』の話をする奴は、決まってここしか取り上げない」とのことである)。


 プリーストの難しくも面白いところは、「語り」=「騙り」の詐術(「信用できない語り手」による語り、あるいは話者の転換といった技術)を、本格ミステリがやるようなある程度シチュエーションを限定してしまうといった形を取らずに使ってしまう部分なのではないかと思う。
 言い換えれば、回想シーンや移動シーンを多用し、プロットを動かしながら多層的な語りの構造を設定しているところにプリーストの独自性は根付いている。流動性のある叙述トリックの使い手とでも言ったところだろうか。


 以前、同じくプリーストの『奇術師』を読んでいたが、こちらは仕掛けが派手であるだけになんとなく大味な印象を受けた。双子という題材、あるいは唯物論的な「魂」の問題を最大級にうまく使っている佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』を体験している身にとっては、どうしても見劣りしてしまったのだ。加えて、『奇術師』の映画版『プレステージ』を観るまでは、ある奇術師がライバルのショーをぶち壊すといった情景が、いまひとつ鮮明に思い浮かばなかったという要因もある。
 しかし、こと『魔法』に関しては、南仏の靄がかかったような幻想的なイメージと、「語り」、そして「記憶」というテーマがうまく符合しているため、わりと腑に落ちて読めたのだった。
 結末も、個人的にはすんなりと理解できた。


 ただ、必ずしも欠点ではないが、書き方がやや書き割り的に見えてしまうことは否めない。なんとなく生硬な印象を受ける。細かな仕掛けよりも、描写のひとつひとつに、そうした虚構性を感じてしまう。
 私は南仏(ペルピニャン)の情景をこのうえなく美しい形で描き出したクロード・シモンの『路面電車』を最も多感な時期に読むことができたので、なおさら留保をつけてしまう。


 さて、『魔法』でいちばん大事な言葉は、性的魅力、あるいは「●●●」の能力、もしくは叙述トリック性を表現するために用いられる「glamour」という言葉である。古沢訳では「魅する力」「魅するもの」などという訳語が当てられていたが、この「魅する」という訳語は、果たして適切だったのだろうか。
 思うに、「魅了する」では堅苦しすぎるがゆえ、やや雅やかな擬古文っぽい響きを持たせるため「魅する」としたのだろう。……考えてみたが、代替案が浮かばないので、やはり優れた訳語なのだろう。しかし、とりわけ和歌などを渉猟すれば、どこかに「glamour」を当てるにふさわしい、優れた掛詞が潜んでいるのではないかとも思わされるのもまた事実だ。
 こんなことを考えている時点で、すでにプリーストの術策に嵌っているのである。


魔法 (ハヤカワ文庫FT)

魔法 (ハヤカワ文庫FT)