リバティーン


 ローレンス・ダンモア監督の『リバティーン』を観る。
 17世紀、王政復古期のイギリスで活躍した詩人、ジョン・ウィルモットこと第二代ロチェスター伯爵の凋落を描く。ジョニー・デップ扮するウィルモットの「諸君は私を好きにはならないだろう」という独白より始まるこの映画、困ったことに、かなり楽しかった。


 ウィルモット自身は、14歳でケンブリッジを出て、18歳で当時の国王チャールズ2世の宮廷入りし、富豪の娘を略奪婚しては、不遜な詩を読み、追放されては舞い戻り、悪友と酒を飲み、舞台に出かけては娼婦を口説き、まさにやりたい放題。
 しかし、王がウィルモットの出世を慮って手配してくれた、ペトロニウスの『サテュリコン』ばりの猥褻劇(加えて、「国家身体」としての王の凋落への皮肉つき。この戯曲が本当に実在するのであれば、ぜひ読んでみたい)を披露し、王の庇護を失ってしまう。


 言語依存性の強い映画だが、ダイアローグがよく練られていて退屈しない。映像も、デビュー作とはいえ、遠巻きの構図からシーンに「入る」瞬間と、対話している人物を撮るときの距離感、それにカメラワークがなかなか面白く、食い入るように観ていた。


 この映画の転回点は、やはりウィルモットに絶望したチャールズ2世が発する「これからはお前を無視する」という言葉だろう。
 ウィルモットのような無頼派の風刺詩人というものは、さながらシェイクスピアの『リア王』に登場する道化のようなものであり、「時代精神」に寄生して(この場合は「王権」に付随する形)で生き延びている存在なので、彼を無視する「余裕の無さ」は、おそらくは時代の「余裕の無さ」でもある。
  こうした両義性は、映画のシナリオ的にうまく反映されているように思う。 ウィルモットはチャールズ2世のシャドーとして扱われている節があり、さもなければ、ラストの大演説が成立しないだろう。


 ただ、同時にウィルモットが吐く冒頭の独白に見られるような、ある種の腰の「弱さ」が気になるところだ。例えば、ウィルモットは梅毒でぐちゃぐちゃになった挙句、33歳で死ぬわけだが、奇しくも同じ33歳で死んだ風刺詩人に、ウィルモットのおよそ100年前に活躍したトマス・ナッシュ(こちらが詳しい)がいる。
 ナッシュの底知れぬ猥雑さに比べ、ウィルモットの(少なくとも『リバティーン』を通して描かれる)ナイーヴな姿はなんとも滑稽で、いかにも、わかりやすく悲哀を誘う。あくまでもウィルモットは17世紀の人であり、バイロン卿(19世紀の人)にはなれなかった、というわけだろうか。


 そういえば、ウィルモットの詩は、まとまった翻訳がないようだ。たぶん、どこかのアンソロジーには入っているだろうが。
 グレアム・グリーンが、ウィルモットを題材にした評伝『ロチェスター卿の猿』を書いているという話ではあるが、「神」について悩んだ近代人という解釈であって、映画とはまた切り口が違うようだ。


追記:向井豊昭/麻田圭子「みづはなけれどふねはしる」内、「ブレイク、ブレイク、ブレイク」にもグリーンのロチェスター伝への言及がありました。

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