SFファン交流会に初参加


 週末はタスクの合間を縫って、原宿にて開催された、SFファン交流会なるイベントに初参加してきたので、簡単にレポートしよう。
 今回のコンセプトは、国書刊行会の叢書『未来の文学』を中心に、60年代〜70年代SF(いわゆる「ニューウェーヴSF」)についてじっくりと語るというもの。素晴らしいコンセプトだ。


 僕は『SFマガジン』2000年10月号に載っていたロバート・シルヴァーバーグの短編「現実からのトリップ」にしびれて、それからずっと、ニューウェーヴSFは面白いと思ってきたので、満を持して参加。
 予習として、ジュディス・メリルの『SFに何ができるか』を再読し、近くにあったサミュエル・ディレイニーの『エンパイア・スター』や、ジーン・ウルフの『拷問者の影』と『調停者の鉤爪』なども読み直したうえで、出かける。 補助線として使えたらと、ジーン・ウルフの"The Book of Days"、サンリオの『SF百科図鑑』、アラン・ロブ=グリエの『快楽の漸進的横滑り』などを持参していく。


 ゲストは大森望樽本周馬国書刊行会)、柳下毅一郎のお三方。
 観客席には、林哲矢氏、中村融氏などもいらっしゃる。豪華ですねぇ。


 会場入りすると、60〜70年代のヒューゴー賞ネビュラ賞の受賞リスト、ゲストやスタッフのお勧め本10冊、SFマガジンで特集された60年代〜70年代SFのリスト、柳下さんがベストに挙げたジュディス・メリルの"England Swinging SF"の収録作目録などが配られる。


 コンベンションの内容としては、ゲストの話を中心に、60年代SFと70年代SFの状況論を語る、という感じ。樽本さんの飄々とした語り口から、ジーン・ウルフの『ケルベロス第五の首』に端を発した「未来の文学」は、わりと行き当たりばったりに刊行されたかと思いきや、早川・創元があえて外していたラインを復権させ、かつ見逃されていた名作(いまだにいっぱいある!)へとふたたび焦点を向ける、つまりは野心的なラインだったという形に落ち着く。


 そういえば、僕は、「未来の文学」刊行時に帯に記された、若島正のエッセイにけっこう感動したクチだった。引用してみよう。かっこいいねぇ。

「50年代が俗にSFの黄金時代と呼ばれる古典期であるとするなら、それに対して60年代から70年代はいわばSFのモダニズム期である。黄金時代にはほとんどハリウッド映画的なアメリカの産物であったSFが、英国のニュー・ウェーヴを端緒にして、その波動に共振する形で、英米の両岸で新しい傾向の作品を生み出していった。その多くは、ちょうどモダニズム文学がそうだったように、当時には前衛的で難解な作品として敬遠されることもあった。
 しかし、新世紀に入った今、そうした作品群を楽しめる時期がようやく到来したのではなかろうか。<未来の文学>シリーズは、けっして過去のSFの発掘ではない。時代が、そしてわたしたち読者が、ここに集められた伝説的な作品群にようやく追いついたのである。新たな読者の視線を浴びるとき、幻の傑作たちはもはや幻ではなくなり、真の「未来の文学」として生まれ変わるだろう。」

 で、実際に、モダニズムの流れを汲む20世紀の形式意識に富んだ小説をそこそこ読み始めると、もともとは文学の一種だったSFが、ニューウェーヴを介して、文学史と再度、有機的に結びついた感じがして、非常な共鳴を覚えたのだった(こぼれ話だが、この帯が、午後に発注して夕方に仕上がってきたという話を聞き、わりと、唖然とする)。


 ただ、こうした見解は、SF者的には、ジュディス・メリルを介して輸入されたものだということになるという。

 実際、ニューウェーヴを中心に読み、ジャンルSFそのものにさほど愛着はないという柳下さん(『百年の孤独』はSFだと言い切る)と、柳下さんがベストに挙げていたヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』はSFじゃないと指摘する大森さんのSF観の違いというものが、顕著に浮き彫りになった感じで、ジャンルを考える際の難しさというものがよくわかる。


 とりわけ、ジュディス・メリルのやりたい放題が極まったものとして、『年間SF傑作選7』のラインナップがもうすさまじかったことが話題になる。ギュンター・グラス、アンリ・ミショー、ウィリアム・バロウズなんかの短編が入っている巻の話だ。


 僕は高校生の時分、つまり97〜99年ごろ、SFの古典を知りたくて、いずれも絶版だった『レンズマン』とか『キャプテン・フューチャー』とか『宇宙のスカイラーク』とか、古本を必死で探して手に入れ、読んでいたクチなので、プロパーとしての遺伝子は強い方だ(実際、こうしたコテコテのSFをモデルとしたと思しきRPG『トラベラー』についての記事を、雑誌に書いたこともある)が、同時にメリル的なSF観も、ごくまっとうなものとして受け入れることができる。
 いや、『キャプテン・フューチャー』もSFですが、ガルシア=マルケスもグラスもミショーもバロウズも間違いなくSFですよ、というわけ。
 ちなみに、コテコテの文学の人と話すときは、ディレイニーの例を出して、『アインシュタイン交点』は文学なので、『キャプテン・フューチャー』も文学だ、という話に持っていく(笑)
 要は、優れた作品には多面性があるので、相手によって切り口を変えていくというわけですな。


 自分的にこうした観点はごく自然なことなので、さしてダブルスタンダードという意識もないのだが、人に説明する際は、やはりダブルスタンダードだと一言断り入れなければ、混乱するということだろう(まあ、カオスのままの方が面白いかも、ともどこかで思うのだが。現にこのブログは極めてカオティックです)。


 その他、「未来の文学」に関するこぼれ話があれこれ語られ、さながら裏話大会という風情に。で、間違いは客席から、ガンガン中村融さんが修正を加えていく。一部を抜粋すると、以下のような感じ。


・『ケルベロス第五の首』、『アジアの岸辺』、『ヴィーナス・プラス・X』、『デス博士の島その他の物語』、『ゴーレム~100』は増刷している。『ケルベロス第五の首』は4刷り!
・70年以前に出た本は、著作権の関係で、翻訳しやすい。
・科学の進歩以外は、形式的な実験精神は、70年ごろからあまり変わっていない。


 あとは、「あれを出してほしい、これを出してほしい」という話に。
 トマス・ディッシュバリントン・ベイリー、ロジャー・ゼラズニィロバート・シルヴァーバーグ、ラングドンジョーンズ、ブライアン・オールディス、デヴィッド・I・マッスンなどの名前(うろ覚え)が客席から投げかけられる(僕もけっこう好き勝手言った)。
 また、新刊情報が公表される。


ジャック・ヴァンスの3巻立ての選集が出るということ。
クリストファー・プリーストの『限りなき夏』はそろそろ出る(カバーだけ出来ていた)。
ジーン・ウルフの「新しい太陽の書」の第1巻『拷問者の影』の新装版は、びっくりするくらい部数が出るという(営業に話を聞いて、編集が止めたくらい)。訳文は指示代名詞がごっそり落とされ、読みやすくなっている(それがよいかはまだ判断留保)。また、第5巻『新しい太陽のウールス』も、もうゲラができている。


 その後、客席に来ていた、スタニスワフ・レム作品の翻訳者である加藤有子さんが、ポーランドにレムを訪ねた際の様子などが語られる。


・インタビュー慣れしすぎていて、勝手に聞きたいことをしゃべってくれる(それらは往々にしてメディアに既に流出したものなので、知っていることばかり)。ベスター『コンピュータ・コネクション』の後書きを思い出すエピソードですな。
・日本語の本が「これは縦に読むんだ」と珍しがる。
ポーランドの情勢とかに全然興味がない。人類史的な視点に興味がある(実にレムらしい)。
ポーランドが月曜だと、日本も月曜なのかが気になるらしい。


 などなど、情報的には盛りだくさんなイベントだった。
 個人的には、もう少し作品論的な観点があるともっとよかった。樽本さんが洩らしたディッシュの短編『ジェシーとエレベーター』(残念なことに知らなかった。山田順子訳で、SFマガジン1992年12月号 No.435 「笑わないやつは誰だ!? ユーモア・ファンタジイ特集」に入っているようだ)とか、かなり面白そうだったので。

 
 その後、打ち上げのお誘いを受ける。わりと、ニアミスが続いていたとおぼしき方々などとお話できる。id:catalyさん、id:risawataya_altaさん、林哲矢さん、hirabatさん、溝口さん、id:yama-gatさん、元『アフタヌーン』編集の方(お名前聞きそびれました)などと、初めて対面して話す。J・P・ブレイロックの話とか、J.G.バラードとか、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のコンパニオンセットとか、ルーンクエストとか、『ドラッケンフェルズ』とか、色々話す。


 id:nirawataya_altaさんにはゲオルク・ハイムの『モナ・リーザ泥棒』を教えていただく。タイトルでもう好みだとわかる。そもそもドイツ表現主義の作家なのに知らない(というかたぶん忘れてた)とは、不覚でした。ブログより紹介文を引用させていただく。最高に面白そうでしょ?

ゲオルク・ハイム『モナ・リーザ泥棒』(河出書房新社、本郷義武訳、1974)。雑誌『幻想と怪奇』に訳出された衝撃作「狂人」を含むドイツ表現主義作家の短編集。ハイムの世界に善意、救い、希望などというものは一切ない。狂気すれすれの、いや、すでに狂気の領域に突入した鬼気迫る筆致で悲劇を描き上げる。たとえ喜びのきざしが一瞬見られたとしても、それは読者と登場人物により深い絶望を味あわせんがための道具立てにすぎない。突き抜けた残虐性とあらゆるものの破滅を志向する感覚を前に、黒い笑いを爆発させる者もいればとても通読できない者もいるだろう。秘められた作者の怒りと悲しみに共感して胸がふるえる者もいるだろう。なんにせよ圧倒されることはまちがいない。真の「冥さ」を知りたければハイムを読め。ここより先はない。


 いかにここ数年の僕の、ある種のアンテナが衰えていたかを痛感する。『モナリイザ略奪』との関連性とか、あるのだろうか。
 ハイムについての研究論文は、ここ(注意:PDFです)にありますね。


 id:catalyさん(ご自身もこのイベントについて詳しいレポを挙げられています。M・ジョン=ハリスンは、僕も気になります)は、「広く浅く読む」「ファンダム初体験」とか言っているくせに、イアン・ワトスンを原書で読んでたりするつわもの。林哲矢さんからは、バリントン・ベイリーのウォーハンマーノベル"Eye of Terror"が面白いと教えていただく(後で発注かけました)。 柳下毅一郎さんとは、バラード『クラッシュ』やジョン・スラデックやらの裏話を聞き、ロブ=グリエの話で盛り上がるなどなど。樽本さんがアルフレッド・ジャリを研究していたことを知ったり、イベントですれ違うことが多かった大森さんにご挨拶したりもする。


 最近酒が弱くなったので、ふらふらになって帰宅。
 家のポストを見たら、オンライン古書店で発注したラングドンジョーンズの『新しいSF』が届いていた。