ニューウェーヴ/スペキュレイティヴ・フィクションのサイト「Speculative Japan」に、渡邊利通さん*1(id:wtnbt)が書かれた「書評――ディッシュのいわゆる『新曲』三部作について」が掲載されています。
『S‐Fマガジン』10月号の大森望さんのエッセイでも指摘がなされていましたが、ディッシュは世の中の仕組みが「見えすぎてしまう」作家でありました。そのせいか、かなり煮え湯を飲まされてきた。そして、とうとう時代の閉塞に耐えきれず、自分の手で自らの生に決着をつけてしまったのでした。
しかしながら、ディッシュの試みがきちんと伝わっているかと言えば、おそらくそうはなっていない。これは作品の価値が低いというよりも、ひとえに、僕たち読者の怠慢に帰してしまってもよいのではないかと思います。
そんな折、渡邊さんが、ディッシュの最も重要な初期の『キャンプ・コンセントレーション』、『334』、『歌の翼に』の3部作について、その本質を突いた批評を提示して下さいました。とりわけ『歌の翼に』評は慧眼と言うべきでしょう。
ブログを一読すればわかるかと思いますが、渡邊さんのスタンス、ならびに膨大な読書体験や豊富な人生経験に支えられた書評の数々は、「在野の知性」(「野生の思考」ではなく)と呼んでしかるべきものではないかと思います。
文学的あるいは思想的な伝統というものは、ともすればアカデミズム内に閉じこめられ毒が抜かれて「安全」なものとされるか、あるいは、権威を裏書きするだけの鼻持ちならない制度であると思われがちです。
しかしながら、渡邊さんの批評を読めば、ディッシュの作品の背後にあるような、文学的・思想史的なフレームを必要とし活用できるのは、象牙の塔の住人(だけ)ではなく、日々生活者として生きる僕たちなのであることがわかるでしょう。 ディッシュの作品は、ディレッタントではなく、日々働いて暮らす者に向けてこそ書かれたものであると、僕は思っています。実際、ディッシュ作品の随所に仕組まれた黒いユーモアは、いわゆる知的なエスプリとは全く異なる類のくすぐりだと理解すべきではないでしょうか。そして、生活者であるからこそ、妙な党派性や因習に束縛されず、文学の裏にある歴史性を素直に継承できるのではないでしょうか。
そう言えばディッシュも、まさに「在野の知性」と呼ぶに相応しい人物でした。
地獄で苦悶しのたうっているに違いない彼の魂に、願わくば、束の間であれ、安寧の時が訪れんことを。