屍者の帝国

 ああ、こう来たのか。ヴィクトリア朝のリサーチは止まっているのだけれども、伊藤さんが何をやりたかったのか、ものすごくよくわかるよ……。メスメリズムの考証ってこれでよかったかな(たぶんわざと)などという部分、おおおBBCホームズだ、などという部分も含め、この原稿はこのあと2回くらい転がせそうで、転がす度にさらによくなりそうだ。残念。
 追悼文に関しては、伊藤計劃を発掘し世に出した人と、ずっと伊藤計劃と一緒に活動してきた人の書いたものを、私はもはや対象化するすべを持っていない。それゆえ、少なくとも、S-Fマガジンの当該号に書かれているものを見る限りにおいて、最も心に響いたのは佐藤亜紀の追悼文である。なぜならば、追悼であるとともに、優れた批評になっていたからだ。


追記:優れた批評になっていたことがなぜ特筆に値するのかというと、作家としての活動歴が極端に短い伊藤計劃について語る際に、プロダムでの交流を主軸にするとイベントで会った印象や病気の話が軸にならざるをえない、という面があるからだ(栗本薫のようなメディア露出が大好きで、ファンダムとプロダムの間に線を引きたがる人間であればまた別だが)。あえて言えば、伊藤計劃という作家を語るうえで、プロダムでの交友録を主軸とする必要性がそこまで高いとは思えない(伊藤計劃が作家としてデビューして嬉しかったことに「今まで読者として接するだけだった人々に直に会える」と言っていたことは忘れられるべきではないが)。『虐殺器官』の作者の機械化された魂の精髄を弔うのに、それ「だけ」じゃあ、片手落ちだろうと私は思う。貧しいと言ってもよい。交友を主題とするのであれば、そのための枠を設けるなりして、例えばマッド軍団の人々など――ブログに発表された追悼文を読むだにyama-gat氏が適任だろう――にも寄稿をさせてほしかったと私は思っている。作家のすべてがテクストに籠められていると信じるほど私は若くはないし、特段の責任を求めもしない。そもそも作家なる存在が、「孤独な散歩者」たるとも、露ほどに信を置けないのだ。作家とは、ごく一部の優れた例外を除いて、出版社の婢僕にすぎない。しかしながら、彼らにしか選択しえない自由がまたある。その自由とは、閉鎖的なムラ意識に還元されるべきではない。仮に「屍者の帝国」で問われているように、魂がメスメリスティックな迷信にすぎないとしても、我々は読みを通じて、そうした魂を分有しうる。

S-Fマガジン 2009年 07月号 [雑誌]

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