最後の作家ミシェル・ビュトール


 僕は喪失感に憑かれている。


 ここ15年ほどの間に、サミュエル・ベケットも死んだ。ロベール・パンジェも死んだ。ナタリー・サロートも死んだ。クロード・シモンも死んだ。 そしてついに昨年、アラン・ロブ=グリエも死んだ。
 残っているのはクロード・オリエとミシェル・ビュトールだけだ。

 
 そしていずれ来るだろうビュトールの死によって、おそらく文学のある種の側面は、完全に「終わる」こととなる。僕らにできることは、 その前に、ビュトールが何を見届けているのか、どういう地平をパースペクティヴに入れているのか、それを最後まで見据えることだけなのだ。


 『即興演奏』を読めばわかるが。ぼくらはビュトールのように世界の全体性を、そのまますっぽりと把捉しようとすることは、おそらくできない。そのように挑戦しようとすら、思うことができない。
 余分な情報が、僕らの間に常に介入してくる。もしくは全体性を理解しようとする試みそのものが、無謀なものと一笑に付される。例外なぞ見たことがない。


 「ヌーヴォー・ロマン」の何が素晴らしいかというと、それは文学的遺産を活かしているかとかではまったくない。
 平岡篤頼が言ったように、彼らはたったひとりのぼくたちのためにものを書いているのだ。
 だから素晴らしいのだ。


 そうなのだ。ぼくたちのためにこそ色々と書いているのだ。
 それがわかるからこそ、ぼくはかれらの小説を読む。
 それだからこそビュトールの小説には、読む価値がある。
 何かに媚びているという意味ではまったくない。
 そうではなく、ビュトールの実験的な小説のなかには、実のところそれらを読む、ぼくらの「顔」が、どこかに反映されている。


 『心変わり』が二人称なのは、そういうわけなのだ。
 ミシェル・ビュトールは、僕らの「顔」を知っていた、おそらく最後の作家なのだ。

心変わり (岩波文庫)

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