トーマス・ベルンハルト『消去』を読む。


▼絶え間なく文章が逸脱していくテクストに惹かれ続けている。*1


▼それがなぜ魅力的に感じられるかというと、ある種の明快な断言からはほど遠い言い回しによって、普通ならば通り過ぎてしまうような切り捨てられた生の断片を拾い上げて寄せ集め、そこから総体として、何か思いがけなくも崇高なものを立ち上げることが可能になるからだ。


▼たとえばクロード・シモンの『ル・パラス』。これはスペイン市民戦争への参加体験が基になっており、明らかにジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を意識した作品であるが*2、主人公の立ち居地がまるで異なっている。


▼作者自身の発言を引いておけば、何をもって『ル・パラス』が書かれたのかがよくわかるだろう。

「しかし今となっては、よく考え、また自分に正直になろうと努めてみると、こんな風に思えるのです−−バルセロナに行ったのは覗き屋、観客としてであって、役者(=当事者)としてではなかったのだと。読んだこともなしに(私はほとんど無教養でした)、デカルトの原理のひとつを実行していたというわけです」


▼ここの「デカルトの原理」というのは、『方法序説』の第三部に記されている、「世界で演じられるすべての演劇において、役者ではなく観客であろうと努め」、それにより、いわば逆説的に、世界を見下ろしうる知の「高み」に立つという姿勢を意味する。


▼だが、重要なのは『ル・パラス』の世界においては、そのような立場からですらも「高み」には辿り着けないということにある。


▼ただ言葉の単純な意味において「覗き屋」たることしかできず、徹底的に唯物的(というといささか語弊があるが)に世界を見詰め、それを変革することはおろか考えることもできず、ただ描き出すことのみが可能であるという状況。即物的なものからしか神話を立ち上げることができるとしかできないような、蠢き流動する世界のダイナミズム。単純なイデオロギーではなく、シモンの世界に存在するものは、そのようなエネルギーそのものであるのだ。


▼主人公が宿泊するホテルから続くバルセロナの通りを眺め、そこに渦巻く<<歴史>>を想像するシーン。

「強烈な色彩に彩られた−−ちょうど葉巻の箱の蓋の上にこれでもかこれでもかとふんだんに描かれた、金塗りの、指でさわるとわずかに盛りあがっている渦巻模様や唐草模様のまっただなかの、二つ並んだ楕円形のなかの肖像画みたいで−−何世代にもわたる女王たちや王たち、王冠を頭に抱いた白痴的な女王たちや、カイゼル髭を生やし、やたらと角張った顎をした国王たちが目に浮かび−−その背後にうごめいているのは、先のとがった兜をかぶり、山賊みたいな顔つきをし、酒をいれる皮袋みたいに腹をふくらませ、甘美な色調(白、うす黄色、マリアの衣ふうの紺色)の制服にぴったり上半身を包み、いたるところにダイヤモンドをつけた植民地総督たち、副王たち、将軍たち、はいたかみたいな嘴をした司教たち、扇を手に持った公爵夫人たち、歌姫たち、闇取引をする代議士たち、アイロンで毛をちぢらせた公証人たち……」


▼このあまりにもバロック的な描写は、それが自然主義的なリアリズムを基調として書かれているために、よく出来たバロック小説、たとえばマイケル・ムアコックの『グローリアーナ』などとは異なった感興を引き起こす。


▼そんなわけで何が言いたいかというと、トーマス・ベルンハルトの『消去』を二度読み、すぐさま感じたことは、あらゆる価値判断を保留するシモンの姿勢と、ベルンハルトの取り上げる方法が、一見同じような、絶えず逸脱を繰り返す文章でありながらも、全く異なっているということだ。


▼それではベルンハルトの特徴とは何か。答えは、平穏な状況に対する、ひたすらうねり繰り返される呪詛と罵倒である。その呪詛と罵倒が、あまりにも魅力的なのだ。


▼通常ならば、どろどろとした渦巻く情念といった負の感情のみが呼び起こされるが、『消去』はそうではない。読了後、なぜかアントン・ブルックナー交響曲のような、不器用だが清澄な音楽が響いてくる。


▼このあたりの感覚を実にうまく言い当てているのが、『消去』の下巻に収録されている訳者解説である。俺は根本的にあまり解説というものを信用していないが(読むのは好きなのだけれどもねぇ)、これは別格だ。

「そこには奇妙なことにまるで別世界からさしてくるかのような透明な光が満ち、妙なる音が響いているのだ。不思議に明るいのである。世界を呪詛し自己を否定する独白は通奏低音のように暗く強いうなりを発しつづけるが、耳を澄ますと、その上に幾層にも積み重なった倍音が響いているのが聞こえる。」


▼タイムリーなことに、佐藤哲也先生が書評を書かれていた。直リンできないようなので、ご希望の方はアンテナから「大蟻食の亭主の繰り言」→「本棚の一角」でどうぞ。無茶苦茶面白い解説です。佐藤先生に「文学的な感動」などと言わせてしまうとはねぇ。

*1:といってもこの類の「実験小説」の翻訳本は60年代後半からちょっとしたブームがあったらしく、探せば結構な種類が見つかる(後のサンリオSF文庫とか入れたら、もっと増えると思う)。だが経験上、そのなかで現代でも読むに値するものを識別するのには、かなりの労力が必要となる気がする。例えば俺はヴォルフガング・ヒルデスハイマーの書いたアンチロマン『テュンセット』の邦訳を所有しているが、まだ読めていない。なんか嫌な感じの「実験」に思えてしまうからだ。

*2:後に書かれた『ファルサロスの戦い』では、「O」という名前でオーウェル自身が登場する。