陰謀論と読まず批評を駁する

論壇プロレスのフレームを外して


 『社会は存在しない――セカイ系文化論』が発売されて、そろそろ2週間が経過しようとしています。喜ばしいことに、少しずつ売れ行きも向上してきているらしく、「セカイ系」という言葉が連想させる――悪い意味で閉鎖性を有した――領域に留まらず、広く現代文化の様相に関心がある方に受容されつつあるようで、端的に言って嬉しく思います。ちらほらと、私宛に感想もいただいております。

社会は存在しない

社会は存在しない

 なかでも、既にご覧になった方もおられるかもしれませんが、シノハラユウキ(id:sakstyle)氏が実に熱のこもった『社会は存在しない』評を、ブログに寄せて下さいました。
 どうもありがとうございます。感謝の意を込めて、こちらで紹介させていただきます。


・『社会は存在しない』限界小説研究会編 - logical cypher scape
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20090714/1247585761


 さて、そのシノハラユウキ氏は、『社会は存在しない』全体をわかりやすい言葉でレビューをして下さっているのですが、拙稿については少々妙な流れで理解されている部分があるようなので、この場を借りて簡単な補足をさせていただきましょう。

ところで、この論は注釈による補論がかなり膨大であり、時にそちらの注釈の方が面白いというようなものすらある。注14における宇野批判などは、単に宇野は頭が悪いと言っているだけなのだが、蕩々と書かれていて笑える。

 シノハラユウキ氏は以上のように記していますが、拙稿「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」の注14は、誰か特定の人物に対し、その人物が「頭が悪い」という単純な意味での批判なぞをしていません。拙稿の批判となっている対象には致命的な欠陥が存在し、その点についてきちんと理論立てて語っています。
 言い換えれば、それは「頭の悪さ」などといった個人の問題で片付けられるものではなく、拙稿の全体を通して提示した問題意識とダイレクトに接続されるものなのです*1


 シノハラユウキ氏は、過去に何度も拙ブログの批評記事にブックマークやはてなスターを下さいました。
 私はブックマークやはてなスターという形を通して得られるフィードバックのために書いているのではなく、私自身、そしてこのブログを読んで下さっている方に何らかの(明確に形を取ることがなくとも)思考の痕跡を提示したいと考え、文章を書いています。
 ですがそれでも、明確な形でリアクションを下さるシノハラ氏の好意を嬉しくないと言えば嘘になります。それゆえ、あえて申し上げましょう。


 拙稿を読む際には、いわゆる論壇プロレス的、あるいは週刊誌的な感触を持たずに読んでいただきたいのです。表示された記号、あるいは固有名詞を、論壇プロレス的なカードに変換させることなく、まっさらな状態から受容していただきたい。そう思うのです。
 それゆえシノハラ氏には「蕩々と書かれて」いる部分が何を言わんとしているのかを、まず見ていただきたい。それが私のメッセージです。

批評という行ない


 なぜこのような、ともすれば書き手による横暴とも取られかねない要求をするのでしょうか。
 最近ふとした機会に、とある編集者の方と雑談をしたことがあるのですが、そこにおいて私が批評というジャンルを選択している理由というものを尋ねられました。
 そこで私は「評論には、例えば小説よりも、読まれ方を限定できる。厳密さを持って言葉を紡ぐことができる」という具合に答えました。
 小説は原理的に、多様な解釈を許容します。その証左はいくらでも挙げることができますが、一例を出せば、小説というジャンルそのものが――ミハイル・バフチンが主張するように――多声的な構成をとっていること。そして、論理構成だけではなく詩的な言語のように、言葉そのものがいわば、換喩的とも言える繋がりをもって展開していく側面が挙げられるでしょう*2


 原理的に評論というジャンルは、本来的に〈知〉の自律を信じるジャンルです。少なくとも私はそう考えています。それゆえ極端な話をすると、批評の題材として取り上げられた作品について、読者が未読であったり予備知識がなかったりしても、論そのものによっていかなる思考が辿られているのかを理解することはできるわけです*3。でなければ、スタニスワフ・レム『完全な真空』のような評論の対象が実在しない評論という前提が成り立たない。
 そして、既存の価値感に対し徹底して疑問符を投げかけるところから出発するのが評論というジャンルの面白さで、おそらく、だからこそ価値がある。少なくとも、他のジャンルではなく、批評でしか取りえないアプローチ方法というものがあるということは確かでしょう。
 「読み手による解釈の多義性」へ安易にすがることなく、議論の対象や論考の方法を絞ることで、思考のルートを確実に提示できること。それこそが、私が評論というジャンルを選択している理由にほかならないのです。
 大学生の頃、私はいわゆるポストモダン小説の執筆を通じてこうしたことをやろうと思っていました*4
 でも昨今の状況を鑑みるに、知的な強度を保つことができるスタイルとしては、小説よりも評論の方が、より機能的な方法に思えたわけです。
 つまり――拙稿でも触れたことですが――ポストモダン小説が「何と戦っていたのか」ということすらが忘れられつつある時代。それが私たちがいま生き、言葉を発している状況そのものなのではないでしょうか。


 いわゆる「ポストモダン小説」によく分類される、クロード・シモンというすさまじい力量の作家がいます。ですが、現代においてシモンのように書いても、シモンが抱いていたような強度は持ち得ません。シモンの劣化コピーになれれば御の字で、おそらく「読みづらい」からと切って捨てられる。
 いかに多義的な問題意識を有していても、それが拾われる機会は極めて少なくなる。それであれば、シモンの系譜をうまく引き継ぐことができる、効果的な方法を取らねばならない。それが私にとっては評論だったのでした。まずは評論を通して何かを打ち立てよう。それでなくては、この先に進むことができない。そう、私は考えたのでした。


論壇プロレスと党派性


 それゆえ私は、いわゆる論壇プロレス的な事態、そして論壇プロレスが往々にして前提とする下卑た党派的な意識に対し、ほとんど関心がありません。
 論壇プロレスは、評論というものを読ませるために、あえて事件や「お祭り」を引き起こすことで、広く(あえて言えば「下世話な」)興味関心を惹こうという試みのことを指すのでしょう。
 しかしながら論壇プロレスにおいて語られる文脈の多くは、つまるところアジテートにほかなりません。そこで発せられる言葉の多くは、論壇プロレスを盛り上げるために発せられるものでこそあれ、読み手の心の深い部分に言葉を届かせるものではない。私たちの思考や読みを規定する、より大きな対象に向けての試みでもない。一時の慰みとして消費され、それで終わりでしょう。


 もちろん論壇プロレス的な事態、ひいては批評と党派性については、何重にもねじれた構造が存在するのは確かです。渡邊利通氏(id:wtnbt)が、「批評と党派性」について、興味深いエントリを挙げておられるので、そちらを参照してみましょう。

 ところで先日ある批評家のブログを読んでいて、批評が党派性を越えることの本質的な困難ということを思った。そもそも人は何故批評を書くか、といえば、多くの場合自分が受けた感動、ある作品の「良さ」を、周囲の人が「まともに受け取っていない」という憤りに発するか、あるいは、自分もふくめて誰もわかっていなかったことをある批評家が「これが凄いのだ!」と指摘したときに「そうか!」と納得したその感動をもっと多くの人にひろめたい、あるいは、その批評家のようにみなに「そうか!」と思わせたい、というところに発するのだと思うので、端的に、それは本性的に言説の状況、いいかえれば一種の政治性を孕まざるをえないのではないだろうか。また、実は純粋に批評家の問題に限定するでもなく、ある種の「運動」にこういった政治性、党派性は必然であるのみならず必要でさえあるのではないかと思うのだ(たとえばカイエ派とヌーヴェルヴァーグとか、SFのニューウェーヴとかで「批評・批評家」がどういう役割を果たしたかを想起してみると良い)。だから、批評を書く人は党派性を恐れるべきではなく、むしろ積極的に党派性を活用すべきである。また、批評家がみずからの党派性を過剰に否定したり、忌避したりしようとするときにはむしろ警戒を持ってそれを読むべきだ。党派性を否定することによって誰が得をするのかというべつの政治(というよりもむしろ経済?)がそこには働いているのであって、それがいってみれば「言説の自由市場」を前提とする「批評家」の宿命なのであり、そしておそらくはその宿命を否定したい、というのが批評家の夢として語られ出すとき、批評家は芸術家への一歩を踏み出す。いうまでもなく芸術家はみずからの中に批評家を有しているが、しかし批評家の「批評」と違い、芸術家の「作品」はずっと状況に対して、というよりもむしろ「作品」は「芸術家(作者)」に対して「自由」であることを認められているという差異があるからだが、もちろん「批評も一つの作品(フィクション)である」という主張が時折みられるのも、そういった差異を解消しようとする批評家の夢にほかならない。しかし差異はある。差異を解消したいと批評家が望むということそのものが、決して解消できない差異があるということの証左だとさえ私は思う。


・なんて退屈。
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20090717/1247889423

 ここで渡邊氏は真摯に考察した結果、「批評を書く人は党派性を恐れるべきではなく、むしろ積極的に党派性を活用すべきである。また、批評家がみずからの党派性を過剰に否定したり、忌避したりしようとするときにはむしろ警戒を持ってそれを読むべきだ」というメッセージを発します。
 実に考えさせられるコメントです。批評の言葉が言説の状況と不可避であったとしたら、批評家は一種の政治家たらざるをえない。
 特定の党派と癒着することを必死で否定した政治家ほど、裏で穢いところと繋がっていたりするのは、私たちが普段眼にするところであるのは確かでしょう。それゆえ、渡邊氏のコメントには大変な説得力があります。

ニューウェーヴSFは本当に「党派」だったのか?


 ところが、また一方で、渡邊氏が例に挙げた「SFのニューウェーヴ」といった例を想起してみれば、腑に落ちない部分が残るのもまた確かです。


 「SFのニューウェーヴ」を理論的に指導した人間として、私がすぐに思いつくのはジュディス・メリル、そしてJ・G・バラードです。ただ、彼らの行ないは、たとえ「ニューウェーヴ」というイデオロギー的な括りに、既存の小説作品群やいまだジャンルに分類されない作品群を囲い込もうとしたように見られがちですが、その実は異なる。「ニューウェーヴSF」は、イデオロギーではないのです。
 『年間SF傑作選』や『SFベスト・オブ・ザ・ベスト』を見ればわかりますが、そこでは単一のイデオロギーに染まった作品が揃っているのではなく、実に多彩な顔ぶれが作品を寄せている。メリルの『SFに何ができるか』を読んで、ディレイニーの『バベル17』とディッシュの「リスの檻」と「アイアンマウンテン報告」が同じジャンルに属しているなどと、いったい誰が考えるでしょうか。


 バラードについても同様です。有名なエッセイ「内宇宙への道はどれか?」だけを読めば、バラードは「内宇宙こそがSF」と、既存のSFと「内宇宙SF」の区分を行なっているようにも見えますが、バラードの言う「内宇宙」というのは、内面に広がる無数の可能世界なんてヤワなものではないのです。 テクノロジーが心のうちに入り込み、人間の一挙手一投足を支配してしまっている時代。人間が抱える圧倒的な真空。「宇宙」というよりも、冷たい方程式によって投げ出されるような空気も光もない場所。「心の闇」なんてヤワなものではなく、そうした真空に人間がいかに機械的に「動かされるか」ということを表現しています*5
 あえて言えば「内宇宙」は存在しません。テクノロジーに内面を投影する場所なんて、最初から与えられていない。でもテクノロジーは依然として「ある」し、たぶん形は変わっても、人間との関わり方はそれほど変わらない。これからバラードを読むのだったら、あえて「内宇宙」を切り離して読むことすら可能でしょう。
 そのように読めば、バラードが「内宇宙」のイデオロギー的な指導者だと考えるような読み方そのものが、今となっては浅薄だとすら思えるのです。


 青木淳悟に引きつけてヌーヴォー・ロマンを語れば、いわゆる「ヌーヴォー・ロマン」と一括りにされてしまう作家たちも、その表現のスタイルがまったく異なるということは有名な話でしょう。
 「ヌーヴォー・ロマン」という括りで語られる作家たち、クロード・シモンにせよ、青木論で積極的に参照したアラン・ロブ=グリエにせよ、ナタリー・サロートにせよ、ミシェル・ビュトールにせよ*6、到底、同じフレームに括ってわかったつもりになって済ませられる作家ではありません。
 かつてアラン・ロブ=グリエは、「我々『ヌーヴォー・ロマン』に共通したところがあるとしたら、それは同じミニュイ社から本を出していることだ」と語りましたが、まさにその通りです。個々の作家があまりにも特異な存在であるがゆえに、せめてその特性を理解できるようにしようと貼り付けられたレッテル。それが「ヌーヴォー・ロマン」というレーベルでした*7


 仮に渡邊氏の言うように批評家に党派性が不可避であって、批評家が党派性を乗り越えることが本質的に困難であるとしても、やはり批評家は党派性に安住すべきではない。議論の空間を設定するために、やむをえず党派性を前提せざるをえなかったとしても、党派性というフレームがない時以上に、対象に対して真摯に接しなければならない。
 「ニューウェーヴSF」、「ヌーヴォー・ロマン」と名付けることで何かを理解したつもりになってはいけない。その先を見据えなければならないでしょう。
 批評の題材が小説であったとしたら、その小説そのものを読み込まなければならない。映画だったら、まずはスクリーンから何かを取り出せないか考えねばならない。渡邊氏の言う「差異」を解消できる唯一の方法があるとしたらそれは、能う限り論じる対象へ真摯に接することで〈知〉への信頼を形にするということにほかなりません*8

限界小説研究会は党派的集団なのか?


 さて、それでは『社会は存在しない』の執筆者たちが所属する限界小説研究会というのは党派的な集団なのでしょうか。私ははっきりと「否」をつきつけます。


 限界小説研究会は、おそらく社会と文化の最先端を見極め、それを形にするという以上の共通した理念を共有してはいない*9
 もちろん、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』が引き起こした貧しい同時代・あるいは歴史的・文化的な認識空間に対抗するという意味においてのコンセプトを、『社会は存在しない』の執筆者たちは各々背負っているわけですが、それはあくまで、『社会は存在しない』のコンセプトであり、研究会の綱領となっているわけではないのです*10
 それは『社会は存在しない』の序文(特にP14と、P15)において、限界小説研究会名義で記されている通りです。参考のために、P15から引用してみましょう*11

 念のために断っておけば、この研究会に参画しているメンバーはそれぞれに個別の関心領域と問題意識を持っており、一見するとこの奇矯な名前が想像させるような何らかの共通のイデオロギーや狭隘な党派的主張を打ち出そうとしているわけでもない。参加形態もきわめて流動的だ。総じてこの研究会は、ただ、同時代に対しての先鋭な問題意識だけで、現在までゆるやかでしなやかな連帯を保っていると言ってよい。

 私が会へ実際に参加した体験から鑑みて、そうみなして問題はないと考えます。
 だって考えてもみて下さい。『社会は存在しない――セカイ系文化論』は、名前の通り「セカイ系」についての論文集です。
 ところが、私はセカイ系そのものについて批判を寄せています。それもプロレス的に他の論文を補完するのではなく、他の執筆者の方々の論文と真っ向から衝突する形にすらなっている*12。党派性に凝り固まった狭隘な集団ならば、論文集に入れる前に叩き出されるのが落ちでしょう。
 ところが研究会は私を追い出さずに、きちんと表現の自由を担保したうえで、好きに書かせてくれているわけです。


小林宏彰「快快――『セカイ』の全体性のうちで踊る方法」を読む


 ですが一方で私の方も、単に「場所を間借りして拙稿を押し込んだ」というような認識でいるわけでもありません。
 私は私で、他の執筆者とイデオロギー的な側面に相違があることを認めつつも、各々の論に対して大いに啓発を受けているのは事実です。その証左として、私がとても面白く読んだ論考をご紹介させていただきます。


 『社会は存在しない』に収録されている小林宏彰氏の論文「快快――『セカイ』の全体性のうちで踊る方法」は、90年代後半からの時代精神が言語のみならず身体性にまでも不信の情を投げかけていた状況を、舞台芸術という「セカイ系」を巡る既存のサブカルチャーの文脈ではまったく語られてこなかった観点から取り上げた作品となっています。
 評論の中心で語られるのは、特に2000年代に入って以降、高い評価を受けている演劇集団「快快」なのですが、「快快」は「コドモ身体」(身体のコントロールが「ユルい」子供のような動き)を積極的に取り入れている団体です。「快快」の演劇を見ると、もはや身体そのものにすら純粋さは宿りえないことが示される。
 ここから出発して小林氏は「快快」の演劇空間そのものをひとつのアレゴリー体と見なすに至るわけで、そこでの論述の過程はもはや既存のサブカル論の範疇に収まるものではないわけです。それゆえ私のような「セカイ系」にあまりいい気がしない人間でも説得的なものとなりえています。


 翻って考え直してみれば、舞台という閉鎖空間ほど「セカイ系」に近いものはない。
 かつて私は、駒場アゴラ劇場で青年団の演劇をいくつも見ました。そこでは人が入れ替わり立ち替わり言葉を掛け合いながら、半ばは噛み合い、半ばはすれ違った言葉のコミュニケーションを繰り返している。そこにはコミュニケーションの奈落が存在するだけで、演劇の魅力であるところの身体性はまるで存在していないわけです。


 そうした状況を、既存の文芸批評的言説のフレームのみで語るのは、無理があります。
 それゆえ小林宏彰氏が高橋志行氏がまとめられた「文芸評論家のためのルドロジー入門」*13を援用して演劇を語る方法は、おそらく演劇論でも、ゲーム論でもなかった視点ではないかと思っています。
 以前、私はゲームデザイナーの小林正親氏の雑誌記事の視点が『ゴドーを待ちながら』とTRPGのシナリオとを比較検証することで、小林正親氏がTRPGのセッションに宿る「時間」という概念を取り出したことを高く評価したことがあります。
 『社会は存在しない』に収められた小林宏彰氏の論文においては、演劇空間のリアリティとTRPGをはじめとしたゲームが獲得しうる新たなリアリティの生成過程を準えて語っており、演劇というゲーム空間についての新たな視座を提示している次第です。


 言語化できない領域と、あるいは身体と「セカイ」とはどう異なるのか。


 「セカイ」という独りよがりな空間に淫しないためにはいかなる表現が必要なのか。そのような観点にも重要な示唆が得られるのではないか。
 私はおたく論壇的なウジウジしたルサンチマンに興味はありませんが、仮に表現を規定する枠組みとして「セカイ系」が機能するのだとしたら、枠組みが規定される在り方はいかなるものとなるべきか、そこにはきちんとした言葉を*14与えなければならないと考えています。
 その意味で、私は小林宏彰氏の論文に大いに刺激を受けたのでした。

東浩紀氏の印象操作


 もはや私のスタンスは語り尽くした気もするのですが、もう少し補足しておきましょう。
 私がとある事情で帰省している間、批評家の東浩紀氏のブログに、『社会は存在しない』のうち――なぜか執拗に名指しが避けられていますが――明らかに拙稿を対象とした批判的エントリがアップされました。


・批判について - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090716/1247736145


 このエントリを読んで私に沸き上がってきた感情は、徹底した軽蔑の念にほかなりません。
 この人は、批評家あるいは哲学者を名乗りながらも、批判する対象をまともに読むことすらしていない。
 

 自分を批判してきた人間がいたとして、その人物がいったい何を批判してきたのかを明らかにせず、印象操作にかまけている。「可能性の中心」に下りるべきだと他者に要求しながらも、自らは「可能性の中心」から最も遠い場所にて、言葉の最低の意味で政治的なアジテートに自涜している。それが東氏の姿勢にほかなりません。
 東氏のエントリは、いくつか拙稿のキーワードを取り出しているような書き方になっているので、ともすれば拙稿をきちんと読んで批判を行なったかのような印象をブログの閲覧者に与えかねないものになっているのですが、それはおそらく詐術にほかならないでしょう。東氏の言葉を借りれば、そこにこそ「ある意志を感じ」ないでもない。


 幸いなことに、東氏のエントリに欺瞞を感じた方は少なくなかったようで、友人のking氏(id:CloseToTheWall)が、東氏のエントリを徹底検証し批判の声を挙げて下さっています。
 なまなかな雑音ばかりが轟くなか、あくまでも第三者的な視点を崩さず、東氏の批判のおかしさを粘り強く論理的に証し出してくれています。ありがとうございます。心より感謝いたします。


東浩紀氏の印象操作的「批判」について――Close To The Wall
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20090719/p1


 おそらく東氏は、king氏の批判について、真っ向から答えることはできないでしょう。
 それだけの真摯さがあれば、そもそも、かようなエントリを挙げることなどできないはずだからです。言わば、東氏はking氏によってトドメを刺されてしまったわけで*15、東氏からこの後、何らかのレスポンスがあるとしたら、のらりくらりとした言い逃れや自己弁護以上のものは出てこないに違いありません。


東氏の杜撰な読み


 king氏の批判によって東氏の二枚舌が広く明らかになった以上、もはや私が東氏の謎めいた問いかけに対し何らかのリアクションを行なう必要性はないでしょう。
 しかしながら私が不思議に感じたのは、どうして東氏のような杜撰な読みがやすやすと流通してしまうのかということです。そのため、あえて東氏の謎めいたエントリについて考えてみます。


 今回の件で私が感じたのは、東氏のものを読む姿勢というものは出来の悪い「パラグラフリーディング」のようなものではないかということでした。
 大学受験で英語を学ぶ際に、予備校などでは「パラグラフリーディング」という読み方を教えられます。長文の要旨を捉える際にある一定量の文章の塊から重要と思われるキーワードを抜き出し、それをつなぎ合わせることでだいたいの内容を把握するといった読み方のことです。
 受験勉強のような、制限時間が措定されなおかつ一定のルールの下に「正解」が定められている空間では「パラグラフリーディング」はそれなりの威力を発揮します。


 ですが、受験勉強的なものを離れて自分のために批評を読もうとするのであれば、「パラグラフリーディング」の出来損ないのような読み方は、まず最初に脇へと追いやらねばならないのではないでしょう*16
 批評を読むにあたっては「パラグラフリーディング」では抜け落ちるものこそを、拾うようにしなければならないでしょう。そうしなければ、意味がありません。それゆえ私は、じっくり腰を据えて、一から書き手の思考の経路をトレースするような読まれ方を前提として、青木論を書きました。ロブ=グリエは、自分の文章を「労働者階級にこそ読んでほしい」という意味のことを述べています。私は自分が労働者階級に属することを心得ていますが、学歴や職業、性別や身分や門地などはいっさい関係なく、真摯にテクストを追いかけさえすれば理解できるものを書くべきだといった具合に、ロブ=グリエの言葉を理解しています。

東氏の陰謀論


 それゆえテクストに真っ向から向かわず、自分の頭の中のみで構成された得体の知れない陰謀論を巡らす東氏の読解は、私にとってはもはや支離滅裂を通り越し、ルサンチマンとお山の大将的な権力欲が入り交じった謎めいたものとしか映りません。
 確かに、限界小説研究会の面々の中には東氏と因縁浅からぬ面々もいると噂レベルでは耳にしたこともあります。しかし私はそのような狭い人間関係のドロドロした話に興味はないので、研究会の面々と読書会をしたり飲みに行ったりしたときも、その件について深く問い詰めたことはありませんし、その必要を感じたこともないのです。

 なにか新しいことを試みることは、必ず、それまで触れられていたなにかを意図的に落とし、別のなにかを取り上げるという作業を伴うからです。このひとは、そのことがわかっていないのではないか。

 このように、東氏は書きました。かように問われて、私は心底驚きました。
 なぜならば、拙稿の中では、その名の通り「切り捨てられた記号を、再度拾うこと」という章が存在するからで、当然その章では、まるまる1章ぶんの紙幅を割いて「なにかを意図的に落とし、別のなにかを取り上げること」を主題として論じているからです。
 もし東氏が――いいかげんにキーワードを抜き出し、意味不明な党派性を見出すのではなく――まともに拙稿へ目を通していたとすれば、このような問いかけが行なわれるはずなどありません*17

しかし、このひとの論文そのものは、外国人の名前を何人も出しているけれど、別に驚嘆すべき博学に支えられているというものではない。

 とも東氏は書いています。
 しかし、私は別に「驚嘆すべき博学」をひけらかしたくて外国人の名前を出しているわけではありません。私の文学的な基礎の多くは、外国人の作家や思想家の仕事によっています。そもそも日本は古くから翻訳文化が盛んであった国であるため、図書館に行けばほとんど費用をかけることなく外国人の優れた作家の仕事を日本語によって享受することができます*18。私は彼らの仕事に意義があると判断しているから拙稿において言及を行なっているだけであって、それを権威付けのように見るとは、何か外国コンプレックスでも持っているのではないかと疑わざるをえません。そのくせ、アルジェリア育ちのフランス人であるデリダの「散種」理解が甘いとほのめかすのですから、もうわけがわかりません。
 拙稿を真面目に読んでいたら、論の中心はあくまで青木淳悟の作品を中心とした文芸評論であって、語られるものは青木作品を通じて導かれる考察であり、文芸評論のフレームを援用した抱き合わせ商法的な思想論となってしまわないよう、気を遣っていることがわかるでしょう*19
 それゆえ「散種」は青木淳悟の作品を語るうえでの一側面ですらなく、そこを甘いと仄めかされるのは論の全体から言っても筋違いと言うほかありません*20。これもまた真摯にテクストに向かい合っていれば、沸いてこないはずの批判です。
 私の論文の注釈が「必要ない」という指摘についても同様に、頭からきちんとテクストを読み込んでいればありえません。私は本文できちんとした青木論を仕立て上げ、注釈では青木の小説そのものについての(逸脱すら挟んだ読み込み)や、状況論的な位置づけ、あるいは引用・参考文献の出版元を銘記しているだけの話で、本文の文脈と本質的に無関係なものは一切載せていません。


 それに、私の本文、特に第1章と2章をきちんと読んでいれば、私の主題が個人攻撃ではなく、広く状況についてのオルタナティヴは何かを考えることにあるとわかるはずです。

期待すること


 しかしいったい、東氏は何を恐れているのでしょう? king氏も指摘していましたが、東氏の批判は、東氏自身にこそもっともよく当て嵌まる。
 だとしたら、彼は自分自身の影に怯えているのではないでしょうか。東氏自身が、最も「党派的」かつ政治的であるがゆえに。

まあつまりは、東ー宇野ー早稲田文学まわりへの批判が続きます。

 このように、私が派閥としての仮想敵を打ち立てているように東氏は書いています。それは正しくありませんし、「早稲田文学」に関して言えば、私はロブ=グリエの「生成装置」論を初めとして重要な思想的基盤として活用しております。
 また、このブログをご覧の方であれば、私が「早稲田文学」出身の作家・向井豊昭について、長くサポートを続けてきたことをご承知でしょう。私が「早稲田文学」について「ある意志」を持って批判しようとするように言うとは、まさに筋違いも甚だしい話です*21。私が「早稲田文学」と党派的に敵対する意味などありません。


・カテゴリー:向井豊昭
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/searchdiary?word=%2a%5b%b8%fe%b0%e6%cb%ad%be%bc%5d

世界はあまりに広大で、無知でないひとなどいないことがよくわかってきたからです。

 こう、東氏は書いています。それなればせめて、批判する相手のテクストくらいはきちんと精読すべきでしょう。よもや自分は特権的で、いい加減な斜め読みでも相手の「可能性の中心」に落下傘兵のごとく降りられると考えているわけではありますまい。
 私は、いかに意味不明な挑発をされようとも「本質をついた批判」という名の論壇プロレスに参加したいとは思いません*22。この場を借りて、はっきりと明言しておきます。しかしながら、それでもなお言うべきことがあるとすれば、東氏には論壇プロレスを仕掛ける以前にまずは批判の対象とするテクストをきちんと精読していただきたい。
 東氏の読まず批評は、批評家としての自殺に等しい。私は東氏に、このエントリへの再批判は求めません。死者を鞭打つ趣味はないので。ただ、今後はせめて論じる相手のテクストはきちんと向き合う姿勢を取り戻してほしい。かつて「ソルジェニーツィン試論」や『存在論的、郵便的』を書く事ができた方にこのようなことを言わねばならないとは、何だか非常にもの哀しいし、ニーチェ的な意味での吐き気すら覚えるのですが、東氏にはそのような最低限の「倫理」を求めます。同時に、このエントリをご覧の方は――拙稿に限らず――謎めいた読まず批評に惑わされることなく、虚心坦懐に読むべき対象へと接していただきたい。こうお願いしつつ、筆を擱くとします。


追記:「笙野頼子ばかりどっと読む」でも、興味深い記事が挙げられています。拙稿を熟読いただいた方にきちんと書いていただけると、誤解が抑止できるので助かります。
http://d.hatena.ne.jp/Panza/20090721

*1:簡単に言えば笙野頼子氏の言う「おんたこ」問題です。こちらなどを参照。http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/searchdiary?word=%a4%aa%a4%f3%a4%bf%a4%b3

*2:嘘だと思う方は、佐藤亜紀氏の論考『小説のストラテジー』をご覧下さい)。尤も佐藤氏の論考はパースペクティヴが広く「換喩」という概念に括られるようなものでもありませんが

*3:もちろん、評論に知的な強度が備わっていて、なおかつ読者が誠実に評論そのものを追いかければの話ですが。読後にでも、論じる対象に触れられればなおよいということは言うまでもありません

*4:こうした問題意識は、今のRPG活動にも引き継がれています。だから、id:king氏が、拙著『アゲインスト・ジェノサイド』をポストモダン小説に準えて下さった時、意が伝わったようでとても嬉しく思えました

*5:『楽園への疾走』は、まさにそのような話でした

*6:これらの作家は、本ブログや私の評論で頻繁に言及されます

*7:アラン・ロブ=グリエが『新しい小説のために』を書いたのは、こうした事態を皮肉ってのことでした。私も、青木を「新しい小説」とする時に、ロブ=グリエ的なアイロニーを意識しました

*8:もちろん、私が出来ているかというと、自戒せざるをえない部分も多いのですが

*9:もちろん、私は研究会の主要メンバーではありませんし、何をもってメンバーとなっているのかもわからないわけですが

*10:このあたり、私の見解は飯田一史氏の意見にほぼ一致しますhttp://d.hatena.ne.jp/cattower/20090720

*11:ちなみに、このエントリの草稿を書いていた時期に、飯田一史氏も同じ部分を引用されていたようです

*12:笠井潔氏や小森健太朗氏、渡邉大輔氏の仕事については拙稿で言及させていただきましたので、そちらをご覧下さい

*13:http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html

*14:おそらく既存のセカイ系論とは異なった形で

*15:さすが、笙野頼子に「野武士」と呼ばれた男!

*16:ほかならぬ東氏自身も、「本を読むときは真面目に読む」(べきだ)と言っています。ここでは「雑音を廃し」と言うことですが、そのなかにはキーワードを適当に拾うような自らの固定観念を廃するような読み方をも含まれるはずです。http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya/jinbunya16-2.htm

*17:クオリティが低いというならばまだ理解の余地はありますが、東氏の話はあくまでも一般論であるため

*18:東氏が主宰したゼロアカ道場の参加者である坂上秋成氏は、にもかかわらず外国文学が日本の文壇においてまっとうな評価の対象となっていないことに問題意識を抱いて同人誌に論文を書かれています。私と坂上氏の文学観は必ずしも一致しませんが、その問題意識には私も強く共鳴します

*19:自画自賛しているわけではなく、形式としてテクストクリティークをしているということ

*20:実際、私は思想史的なフレームを軸とする仕事もしています。つい先日はSF乱学講座というイベントで、デヴィッド・ライアンを主題として青木論やRPGについて講義をしました

*21:私は、同誌の10年来の愛読者です

*22:論壇プロレスが意味なく一人歩きすると、まともな読者にそっぽを向かれるということを私は知っていますから