パウル・シュレーバーについて


 ポール・ド・マンの『美学イデオロギー』を思い切って購入する。この手の本を買うのはずいぶん久しぶりである。
 ド・マンについてはざっと教科書的な知識しかなかったのだが、ざっと一読するとずいぶん印象が変わった。
 デリダの書き方がレトリックに逃げているようなところがあるのに対し(それはおそらく論じる対象を「脱構築」によって「破壊」するのではなく、再度の読み直しを行うだけの余地を与えるためだろう)、ド・マンが行う「脱構築」の方法は極めて明快(だと思うのだが)なものの、ずいぶん執拗かつ辛辣なところがある。
 とりわけシラーによるカントの誤読を論じたところは容赦なく、カントが切り離した「美」と「道徳」を、無理矢理接合してしまうシラーの姿勢に、ド・マンは、ナチズムと同列の「美学の政治化」を見出してしまっていたりする。

 
 しかし、この手の本を買うのはずいぶん久しぶりだ。思い返せば、最近読んだ思想関係の本は、キェルケゴールの『反復』と、柄谷の『隠喩としての建築』(意外と面白かった)、あとは某誌に掲載されていた批評だけだった。そういえばフェルナン・ブローデルの『地中海』も全巻制覇したが、これは「読んだ」と明言するのが憚れるのでのけておくとして、『美学イデオロギー』を読み直したあとは、かの『アンチ・オイディプス』に進むつもりなのだが、やや躊躇してしまう。俺は根本的に、あまり「思想」なるものを信じていないのだ。「思想」向きの頭であるとは思うけれども、結局のところ「思想」は儀式魔術を欠いた宗教、もしくはゲームでしかない、と思う。
 実は、この躊躇は今に始まったことではない。そういえばかなり昔、『アンチ・オイディプス』を買おうとしてやめたことがあるのだが、その原因は、よく挫折の原因とされる謎めいた文体のせいではなくて(むしろあれは俺の好みに近い)、冒頭で症例の一部として引かれている『シュレーバー回想録』を読んだことがあったからだった(以下、だいぶ前に書いた文章の再録含みます)。

 
 『シュレーバー回想録』とは、パウルシュレーバーというインテリの有能な裁判官が、突然中年期になって罹患した神経症の症例を記した書物である。これが特徴的なのは、他者が記録したものではなく、シュレーバー自身の手によって書き記されたものだからだ。一時病状が落ちついていた際に、冷静な筆致で過去の記憶ならびに体験を、克明にレポートしたのである。もちろん本人は自分が「狂っていた」とは微塵も感じておらず、ただ、自らの体験を「証明」するために筆を取ったのだ。
 『回想録』を記した後、シュレーバーは病状が悪化し、入院中に死んでしまうのだが、出版された『回想録』そのものも、内容があまりにも常軌を逸していたために、遺族の手によって回収され焼却されてしまった。しかしこの特異な症例はお決まりのように専門家の興味を引き、フロイトのマジック・メモのエピソードの元ネタやら、ウィトゲンシュタイン(が言ってること)の先駆やらとして語られる機会が多かったらしい。

シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)

シュレーバー回想録―ある神経病者の手記 (平凡社ライブラリー)

 なるほど、『シュレーバー回想録』を心理学的・精神分析的に観た例はそれこそ枚挙に暇がないだろうし、実際そう読めば、色々と啓発的な部分も散見されるだろう。しかし俺は、実は「思想」関係の本を「小説」として読む癖がついてしまっており、当然『シュレーバー回想録』をも「小説」として読んでしまったのだ。これが失敗の原因だった。
 確かに、作品内で描かれる狂気の沙汰としか言いようのない世界は、その成立過程とも相俟って、「フィクション」としてその姿を呈示する。しかしながら、自らの過去を語るシュレーバーの語り口には、ニーチェ的な熱狂もさることながら、自らの過去を一歩引いた視点から眺め、純粋な「記録」として回想録を描こうとする透徹した視線も観られるように思われる。そして、全体の叙述に見られる格調の高さは、ヘタするとこの回想録を「文学」にまで高めようとしたような姿勢すら窺わせる。ここがネックなのである。

 
 話をわかりやすくするために、かなり似た構成である、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』を比較対照として例に出そう。
 言うまでもなく、『ヴァリス』は、ディック晩年の問題作である。もともとディックはサイエンス・フィクション作家としてデビューし、まさしくパルプ作家的に猛烈な勢いで作品を量産した多作の人であった。しかし、その作風は古典的なSFの小道具を利用しながらも、必ずその枠を逸脱する(いかにもSFしてる初期短編ですら)。特に、1963年に発表された『高い城の男』は、その年の最優秀SF作品として読者が選出する、ヒューゴー賞を受賞している。

ヴァリス (創元推理文庫)

ヴァリス (創元推理文庫)

 しかしながら、歳を経るにつれ、彼の描き出す世界は、いわゆるプロパーSFの範疇にとどまるものではなくなった。あのアガサ・クリスティですら、実際には純文学めいたものを書きたくてしかたがなかったのだから、もともと話を放り投げるのが得意なディックが、そっちの方に接近しないわけがないといえばそれまでの話だが。それでまあ、晩年に発表された、『ヴァリス』は、いわゆるSF的な小道具は一切廃されて、彼自身の神秘体験をもとに書かれた、「普通小説」になっていたのであります。
 『ヴァリス』の筋は単純である。主人公ホースラヴァー・ファットは、恋人グロリアの自殺を止めることができず、失意から麻薬に溺れ、自殺未遂を繰り返すようになった。が、そこにも救いはなく、かくして彼は仲間と神学に救いを求め、ネオプラト二ズムやマニ教グノーシス主義などの異端思想に浸かるのだが、やはりそこにも救いはなかった。そんなあるとき、彼は突然、神に出会ったのである。

「神に出会った後、ファットは普通ではない神への愛を高めた。通常、人が神を愛するというときに意味するものではない。ファットにあっては事実上の渇望だった。そしてさらに不思議なことに、ファットは神が自分を傷つけたものの、自分は酔いどれが酒を焦がれるように神に焦がれていると我々に説明した。ファットが言うには、神がピンク色の光線を直接ファットに、ファットの頭に、ファットの目に照射した。ファットは一時的に目が見えなくなり、数日の間頭痛に苦しんだ。ファットによれば、そのピンク色の光線を描写するのは簡単だった。眼前でフラッシュがたたかれたあとの残像と同一なのだ。ファットは精神的にその色にとりつかれた。テレビの画面に現れることもあった。ファットはその光、その特定の色を見たいために生き続けたのだった。」(『ヴァリス』、27ページ)

 それでまあ、『シュレーバー回想録』に触れた者ならば誰でも、シュレーバーが語る、「神との神経接続」を思い出すことだろう。シュレーバーは神にいろいろと身体をいじくられてしまうのです。

「神は元来、神経そのものなのであって、身体ではない。従って神は人間の魂に類縁するものである。しかし神の神経は、人間の身体におけるように、限られた数だけ存在するのではなく、無限もしくは永遠に存在する。神の神経も、人間が持っている様々な特性を備えてはいるが、その能力はどんな人間にもはかりしれないものである。とりわけ、神の神経は秘蔵回のありとあらゆるものにその身を移し替えることができる。こうした機能を発揮するとき、神の神経は光線と呼ばれる。そしてまさにここにこそ、神の創造の本質がある。神と天空の星辰の間には、内密な関係が結ばれているのである。」(『シュレーバー回想録』、31ページ)

 この後、シュレーバーは彼独自の理論に基づき、天文学的・神学的な観点から、「神経接続」の様子を描写する。一方、ホースラヴァー・ファットの方も、「神の啓示」を分析する。この方法は、シュレーバーのそれと、かなり似通っている。

「われわれは<脳>の思考を物理的宇宙における配置・再配置−変化−として体験する。しかし物理的宇宙は実際にはわれわれによって実在化される情報および情報処理にほかならない」(『ヴァリス』32ページ)

 そして、間もなくファットは、<釈義>を記すようになる。自らの神秘体験に基づいた宗教観を教典の形で残そうというのだ。それはまさしく、自らの体験を『回想録』として理論的に記録しようとしたシュレーバーの姿のようである。シュレーバーの奔放な想像力は、時にはまさしくパルプSF小説の筋書きのような荒唐無稽なものと化していく。「神」が発する「内なる声」による絶え間ない「思考脅迫」、「脱男性化」…。これらの奇妙な症例は、彼自身のコンテクストによって、神学と結びつけられていく。

「ここで述べた脱男性化の奇蹟を成就する能力は、下位の神(アフリマン)の光線に固有のものであり、上位の神(オフルマスド)の光線には必要な際、男性性を復活させる能力があった」(『シュレーバー回想録』87ページ)

 そしてシュレーバーは、主治医であったフレッヒジヒ教授を、神の戯れによって動かされ、自分を動かしていく存在であるとし、淡々と、「魂のフレッヒジヒ教授によって獲得された神経言語」(『シュレーバー回想録』90ページ)について語るのである。


 ホースラヴァー・ファットのほうも、パルメニデスをベースとした神学大系を徐々に構築し始める。

「ふたつの領域が存在する。上なる領域と下なる領域が。上なる領域は超越宇宙Ⅰあもしくは<陽>に由来し、パルメニデスの形態Ⅰであって、知覚力、意志を有する。下なる領域は<陰>に由来し、パルメニデスの形態Ⅱであり、機械的であって、盲目の動力因に駆動され、死せる源から流出するゆえに、決定論的にして知性を有しない。太古には『天界の決定論』と名付けられた。われわれは概して下なる領域にとらわれているが、秘蹟を投じ、プラスマテによって救われる。天界の決定論が破られるまで、われわれは閉塞している。<帝国>は終滅することがない」(『ヴァリス』72ページ)

 しかしながら、彼の記した<釈義>は、素人目で観ても、神学的な完成度として見ればひどく卑小なものである。それは、あたかも現代のサブカルチャーが伝統文化が築きあげてきた体系を無視し、極めて恣意的に「かっこいい」部分を寄せ集めて中身を構築しているのを連想させる。そして、シュレーバーシュレーバーで、彼の妄想をさらに発展させていくのだ。
 一方のシュレーバーは、彼が「聖なる時期」と呼ぶ、1894年3月から5月頃の間に、シュレーバーの頭の中の神は、まるでハリウッド映画を連想させるような壮大なスペクタクルを演じ始める。

「私は−私の想い出が完全に狂っているのでなければ――同時に二つの太陽を空に見た。一つは我々のこの世の太陽であるが、もう一方は収縮してただ一つの太陽になってしまったというカシオペヤ座であったのだろう。ところで私の記憶していることの全体から一つの印象が生じ、私の中に根を下ろしている。つまり、一方の人間の受け止め方では三箇月か四箇月ほどにすぎないこの期間が、実際にはたぶん途方もなく長い期間に及ぶもので、一夜がほんとうは幾世紀もの間続いていたのではないか、それ故にこそこの時間内に全人類と地球そのもの、さらには全太陽系にまで及ぶ根底的な変化を成し遂げてきたのではないかないか、そのように思われるのである。」(『シュレーバー回想録』107ページ)

 けれども、シュレーバーの妄想がいわば指数関数的にエスカレートしていくのに対し、ホースラヴァー・ファットのそれは、いわば別方向からの変化を遂げる。『VALIS』との出会いである。『VALIS』とはマザー・グースというロックバンドのメンバーである、エリック・ランプトンという男が制作した映画の名前である。その映画ではファットが経験した「ピンク色の光」や「第三の目」と呼ばれる現象が描かれるのだが、それ以上に、映画の筋立てそのものが非常に奇妙な様相を呈していたのである。なお、蛇足ながら『ヴァリス』で語られる「性器がない女性」は、否応なしに前述したシュレーバーの「脱男性化」を想起させる。この点からも、『ヴァリス』と『シュレーバー回想録』との共通点が証明できるだろう。

「「あれは別のアメリカだったな」ファットがいった。「ニクソンのかわりにフェリス・フレマウントが大統領になっている。そうだろう」
「エリックとリンダは人間だったんだろうか」わたしはいった。「最初は人間らしかった。それからリンダがまったく……つまり、性器のないことがわかった。それがあとで、薄膜をはぎとると、性器があらわれた」
「しかしエリックの頭が爆発したとき、頭の中にはコンピュータの部品がつまっていたじゃないか」(『ヴァリス』229ページ)

 この後、ファットらはこの映画の製作者であるランプトンとコンタクトをとろうとする。そして、試みは成功し、ランプトンと会うことになる。彼は、『VALIS』が、配給されるために数々の重要な部分を切り捨てなければならなかったと言い、「仏陀は遊園にいる」との意味深な台詞を残す。その際、ランプトンは、ファットの「正体」を指摘する。

「情報はぼくの友人のホースラヴァー・ファットに伝えられたんです」
「しかしそれはきみじゃないか。フィリップがギリシア語でホースラヴァー、馬を愛する者を意味する。ファットはディックのドイツ語訳だ。つまりきみは自分の名前を翻訳している。」
 わたしは何もいわなかった。(『ヴァリス』269ページ)

 そう、『ヴァリス』の作品中において、これまで一人称で描かれていた主人公ホースラヴァー・ファットは、実は物語の作者のフィリップ・K・ディックと同一人物であることが明らかにされたのだ。そして、読者はこれまで「フィクション」として受け止めていた物語を、急に作者自身が何のオブラートも着せずに語る「ノンフィクション」として認識するようになる。実際、フィリップ・K・ディックは晩年には神秘主義に走り、『ヴァリス』に記した教義を基盤とした宗教を樹立しようとしたという話もある。


 これは、「ノンフィクション」として書かれながらも、「神経病者の手記」という体裁のために内容が「フィクション」として読まれてしまう『シュレーバー回想録』と好対照を為している。精神病理学者は、シュレーバーの残した『シュレーバー回想録』の最後に収録されている「決まり文句集」(「神」がシュレーバーに行ったとされる悪戯を集めたもの)から、パラノイアを分析するための何らかの基盤を読み解こうと腐心し、一方、救いを求める読者は、「フィクション」である『ヴァリス』の巻末に記される「秘密教転書」から何か真理へのヒントを得るべく血眼になるのだ。
 だが、読者をそのように駆り立てているという点で、すでに『シュレーバー回想録』はある種の本格ミステリ・あるいは引力を持った「文学」作品として、反対に『ヴァリス』は一種の神学の研究書と読まれたとしてもおかしくないだろう。


 しかし、当たり前だが、(逆説を弄べば何とでも言うことができるにしても)宗教的あるいは哲学的な真理などというものはどこにも存在しない。『シュレーバー回想録』が出版されるやいなや社会的に抹殺されてしまったように、また、『ヴァリス』のラストで一人になったホースラヴァー・ファットとフィリップ・K・ディックが、真理だと思っていたソフィアという少女を失い、ふたたび二人に分離したように。
 そしておそらくディックは、この事実に、作家特有の嗅覚によって気が付いていた。それがゆえに知らず、自らを相対化してしまうのである。ここにディックの偉大さがある。

「楽劇『パルジファル』は、何かを学びとった、何か価値あるもの、いや貴重きわまりないものを学びとったという主観的な印象をあたえる、難解な芸術作品のひとつだ。しかしじっくり調べてみると、頭をかきむしりはじめ、「ちょっと待ってくれ。何の意味もないぞ」といいたくなる。わたしは天国の門に立っているヴァーグナーを思いうかべることができる。
「わたしを入れて下さらなければならない」ヴァーグナーがいう。「わたしは『パルジファル』を書きました。『パルジファル』は聖盃、キリスト、憐れみ、治癒に関係のある作品です。そうじゃありませんか」
 それに対して天国の門番が答える。
「読みましたが、意味のないものでした」
 ガチャン、天国の門が閉じられる。
 ヴァーグナーは正しく、門番も正しい。これもまたフィンガートラップ」(『ヴァリス』210ページ)

 この後、ディックは『ヴァリス』の続編である、『聖なる侵入』、『ティモシー・アーチャーの転生』によって、自らの教義をさらに深めていく。だが、その視点にはかなりの割合でアイロニーが含まれる。実際、俺は『ティモシー・アーチャーの転生』を「教義」としてではなく、よく出来た実存主義「小説」として読んだ。しかしまあ、こんな辛気臭い物語群よりも、死と再生がモティーフとして用いられるのならば、ジョン・ヴァーリィの『へびつかい座ホットライン』のような作品のほうがずっと好きだ。
 だが一方で、「小説」としてのシュレーバー回想録には、肝心の「何か」が欠けている。精神分析の知識を持たない読み手にテクストを「小説」として読むことを強いながらも。とりわけ最後の文章は、なんというかその、あまりにも酷い。

「今後さらに私の個人的な運命が進展するなかで、わたしの宗教的な思想が世に知られることが、その思想の正しさを証明してやまない様々な根拠の重みと相俟って、人類の宗教観に歴史上まれに見る革命を引き起こすこともありうる、否、その公算は大きいと私は思っている。現存のあらゆる宗教的体系が揺り動かされることで、どれほどの危険が生じるのか私にはよくわかっている。確かに、一時的には宗教心が混乱し、様々な障害が引き起こされるであろうが、しかしそれをまた相殺するであろう真理の勝利の力を私は信頼するのである。これまで真理とされてきた宗教的観念のうちの多くのものに、とりわけキリスト教においては訂正を施さねばならなくなるとしても、生きた神の存在、そして死後における魂の永生が人類に対して確証されれば、それはまさに悦ばしいことと言わねばならないであろう」(『シュレーバー回想録』375ページ)

 いま改めて読み返しても、最低だと思う。ある種の「思想」における敗残者の姿を観た気分になる。そしてここから敷衍して考えてしまうがために、「思想」(とりわけ精神分析)への懐疑が抜けないのだろう。
 とまあ、二つの本を引いてきて俺の思想への「懐疑」の原因を語らせてもらったのだが、先の日記で書いたトーマス・ベルンハルトの『消去』も、実はこのラインで語れそうなスタイルを持っていると思う。


 そして、長くなるので語らないけれども、『消去』はこの二冊よりも、遥かに素晴らしい「文学」であるとつくづく感じる。一見、ベクトルは正反対であるのだけれども、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』と同じ匂いを感じるのだ。つまり、『消去』は最高だってことですね! 
 詩と狂気は、結局のところ、似て否なるものであるのでしょう。

「眠りは浅かった。楽しくも単調な毎日は、幸福な不安に満ちみちた短い夜々によって区切られていた。むろん彼は早めに部屋へ引き上げた。というのもタドゥツィオが舞台から姿を消す九時ともなれば、彼にとって一日は終わったも同然であったから。しかし空が白み始める頃になると、彼はやさしく心を貫く驚きのために目をさます。心は冒険を思い起こす。もう寝床のなかに横になっている気がしない。ちょっとしたものをからだにまとって夜明けの寒さを防ぎながら、開け拡げた窓際に腰を下ろして日の出を待つ。すばらしい日の出は、眠りによって清められた魂を敬虔な思いで満たしてくれる。まだ空も大地も海も、気味の悪い硝子のような、暁け方の青色の中にある。星が一つ、まだ消えずに大空にかかっている。そこへそよ風が吹いてくる。曙の女神エオスが良人のかたわらに身を起こし、遠い彼方の空と海との一部分がかすかに赤らみ初めて、創造の日をここに新たに再現することの、人間には近づきがたい棲み家から送られてきた迅速な知らせなのだ。女神が近づいてくる。クレイトスとケパロスを奪い、オリュンポスの神々の妬みに抗いながら美しいオリオンの愛を享ける、美しい青年を誘惑する女神である。向うの、世界の果てにバラの花が撒かれ始めた。なんともいいようもないやさしい光と輝き、清らかな雲は聖化され、光に浸され、仕えかしずく愛の童神たちのように、薄桃色の、青味を帯びた大気のなかに漂い、深紅の色が海の上にさっと落ちる。海はその深紅の色を沸き立ちつつ前へ前へと押し進めて行くように見える。黄金の槍が水平線から大空の高みにすいと伸びる。光耀は燃える炎となり、音もなく神々しい壮大な力で炎熱と火炎とが立ちのぼり、沸き返る炎がめらめらと燃え上がり、蹄で蹴りながら、女神の弟の御する神馬が地上に姿を現わす。この神の壮麗な光を浴びて、孤独に、目ざめた作家はじっと座って、目を閉じ、光耀に瞼を接吻させていた。昔のいろいろな感情、奇妙に姿を変えて立ち戻ってきた――彼は困惑した、いぶかしげな微笑を浮かべてそれを眺めた。彼は思いに耽り、夢み、その唇はゆっくりと一つの名前をいうような形をとった。そして依然として微笑を浮かべながら、顔を仰向けにして両手を膝に置いたままでもう一度安楽椅子の上で寝入った。」(『ヴェニスに死す』p.176)