「SF・評論入門3:「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機」改訂版が公開されました

 先だってのエントリ「“論考が気に入らないから執筆者を殺せ”という暴言に抗議します」について、拡散協力をいただいた皆さま、また、あたたかいコメントを寄せていただいた皆さまに、改めて感謝します。


 引き続き「Book News」の拙稿についての話です。
 「SF・評論入門3:「伊藤計劃以後」とハイ・ファンタジーの危機」の改訂版が公開されました(URLは同じです)。その経緯をご説明していきます。
 同稿について、当方へ寄せられた意見のうち、飛浩隆さんのご意見が特に参考となりました。飛浩隆さんは水見稜『マインド・イーター 完全版』の解説のように、優れた批評を書かれています。『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』所収の拙稿を執筆する際にも改めて参照し、多くを学びました。その飛浩隆さんのご意見の要諦は、「文章を圧縮しすぎて文意が取りづらくなっている」というものです。
 その問題の箇所について、修正前は下記のようになっていました。

【指摘箇所周辺・修正前】
かつてSFといえば、左右のイデオロギーを超克し、科学の発展に伴い未来も無限に拓いていくものだ、という期待がかけられていました。
伊藤計劃のSFは、そうした期待へ、コペルニクス的な転換をもたらしたものだといえます。
そして、伊藤計劃の状況認識と、彼が遺したヴィジョンは、現代日本SFの新たな出発点として、すっかり定着した感があります。

 翻訳家の大和田始さんがお気づきになったように、この文脈は1960年代のSF観、いわゆる「日本SF第一世代」のスタンスを強く意識したものとなっています。具体的に固有名を出せば、小松左京が「未来の思想」で提唱した「未来学」の問題です。
 しかしながら、文章がわかりづらくなっているのは確かです。また、当該箇所については「コペルニクス的転回」が「コペルニクス的転換」になっているなど誤記があったことも判明したため、大幅にパラフレーズした形で修正依頼を出し、このたび反映されました。「Book News」の編集の方には、心より感謝します。
 以下、この箇所の修正後の原稿を紹介いたします。念のために、詳しく書き加えました。

【修正後】
2013年現在、ひとくちにSFといっても、多様な広がりを見せています。
それを一括りで説明するのは困難です。
しかし、それでは話が進まないので、地球規模の大災害を扱った『復活の日』の英訳版刊行が記憶に新しい小松左京を、20世紀の日本SFを代表する書き手と仮定しましょう。
小松SFの原点には、敗戦体験があります。
そのペンネーム「左京」が、どうやら学生時代の左翼運動に由来するらしい(「”左”翼的な”京”大生」ということ)という逸話を別にしても、小松左京の初期作「地には平和を」や、『日本アパッチ族』は、太平洋戦争における日本の敗戦なしには、生まれなかった作品でしょう。
その小松左京のSF観をもっとも端的に表現している論文は、『未来の思想』だと、筆者は考えます。
文学とはしばしば、同時代の支配的なイデオロギーを代弁する道具として利用されます。
小松はそのようなイデオロギー――「左翼」や「右翼」が典型ですが――を超克し、実存のありかを模索する新時代の文学として、SFをとらえていました。
『小松左京自伝――実存を求めて』が雄弁に物語っていますけれども、自らの実存を探るために、小松はSFを書いていたのです。
そして、小松がSF創作を通じて培った思想を、端的にまとめあげた一つの代表となる著作が『未来の思想』という理論書です。
『未来の思想』で語られる内容を一言で乱暴に要約すれば、科学と文明の絶えざる進化を軸に、“「現在の延長線上にある未来」ではない「現在を超えるものとしての未来」”を、理論・抽象的に記述する方法として、既存の学問を領域横断的に再編成した「未来学」を提唱する、というものでした。
『未来の思想』は文明論でありながら、そのぶっ飛んだ発想は、SFでしかありえない魅力をはらんでいたのです。
むろん同時代において小松の「未来学」が、無批判に容れられたわけではありません。
「未来学」にはテクノロジーと政治性の癒着についての批判意識が薄いと、的確に指摘した言説も存在しています。
しかし、「未来学」の発表当時、そのような意見はあまり目立ちませんでした。
「未来学」という枠組みで意識せずとも、「未来学」的な思考法が、人々に広く浸透していたからです。
そして、このヴィジョンは、“もはや戦後ではない”と銘打った高度成長期の時代精神と、みごとに連動していました。


小松左京伊藤計劃
その共通点、そして相違点は何でしょうか?
小松左京が模索した実存は、すばり「20世紀的な実存」でした。
両大戦による無数の死を通過して、思想的な真空に放り出された小松は、自らのアイデンティティ、寄るべとなる実存を求める必要がありました。
実存主義哲学の創始者と呼ばれるセーレン・キェルケゴールは、屈折した自意識の葛藤に悩み続ける主体のモデルを打ち立てましたが、このキェルケゴールが模索した実存を、仮に「19世紀的な実存」とします。
すると、小松左京の求めた実存は、ファシズム社会主義を経て、特定のイデオロギーに拠らない自己を形成しようとするという意味で、「20世紀的な実存」だと言えます。
伊藤計劃は小松のように「未来学」を打ち立てることはありませんでしたが、その小説は、高度な思弁性を有した文明論ともなっていました。
伊藤の『ハーモニー』では、「生府(ヴァイガメント)」と呼ばれる統治機構が「優しい」管理体制を徹底させ、人々の生殺与奪を握る世界が描かれます。
テクノロジーと情報環境の発展と、「環境管理型権力」とが、「優しい暴力」として融合しているわけです。
『ハーモニー』では最終的に、人類は自らの自意識を消滅させる決断を下します。
テクノロジーの発展と人間の進化を連動させた結果、その過程において、人間を人間たらしめる決定的なものが、綺麗に捨て去られてしまうことへの問題意識。
そのようなヴィジョンの背後には、「未来学」批判の文脈が、的確に引き継がれています。
これは小松の言う「現在の延長線上にある未来」と「現在を超えるものとしての未来」を、単に転倒させたものではありません。
むしろ伊藤計劃は「未来学」批判の先にある、「21世紀的な実存」を描き出そうとしたのではないでしょうか。
そして、伊藤計劃の状況認識と、彼が遺したヴィジョンは、現代日本SFの新たな出発点として、すっかり定着した感があります。

 なお、これでも書き足らなかった感は多々ありますが、記事の性質上、この程度の素描とならざるをえませんでした。何卒ご容赦ください。
 “小松左京伊藤計劃”の問題については、これまで私が書いてきた諸論文、第5回日本SF評論賞受賞論文「「世界内戦」とわずかな希望――伊藤計劃虐殺器官』へ向き合うために」、改訂版の文中で紹介した「21世紀の実存」、そして今回の『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』に収められた「「伊藤計劃以後」と「継承」の問題――『ヨハネスブルグの天使たち』を中心に』で繰り返し考えてきました。あわせてご参照をいただけましたら、幸いです。
 また、この機会に、「「伊藤計劃以後」と「ハイ・ファンタジーの危機」については、全体的に手を入れました。煩雑になるので、個々の修正点については挙げませんが、改めて全体をご再読なさっていただければ、ありがたく思います。