ジャック・デリダの〈差延〉概念の射程について


 現代思想についての簡単なノートを作製してみました。すなわち、デリダに関したキータームの代表格である〈差延〉について、まとめ直してみたのです。
 密かにポストモダン哲学の再評価が進んでいると言われる現在、〈差延〉という言葉が単純に用いられすぎている印象を受けたので(使われないよりはよいでしょうが、あまりにテキトーだと本質から外れるとも思います)、〈差延〉の多元性について自分なりのノートを作っておこうと考えた次第です。流されてしまわないために。


※使用文献は以下の4冊。
 ジャック・デリダ『声と現象』、『法の力』、ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』、カール・シュミット『政治的ロマン主義』。
 および、藤本一勇氏の学説を参照しています。

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

政治的ロマン主義

政治的ロマン主義


●単純化された〈差延〉受容


 ジャック・デリダについて語る際、常に問題となる〈差延〉という概念。
 それはいったい何か。
 いざ定義づけようとすれば、簡単な話だ。
 善と悪、正と反、美と醜、などといった二項対立を解体し、それらの「差異」となる部分を文字通りに「延長」させることによって、二項対立の攪乱、ひいては「差異」そのものの重要性をことさらに強調させて見せる姿勢に他ならない。


 だが、このような文脈で用いられる〈差延〉とは、あくまでも「言語論的」な意味合いのものにすぎない。つまり、一義的であるがゆえ、単純化されてしまうのだ。


 〈差延〉という言葉が本来意図していたものは、もう少し、多義的かつ多元的な意味合いを持つ概念装置だった。

 
 以下、〈差延〉がどのような性質の概念であるのか、「言語論的」なレベルのほかの可能性を探るべく、簡単ではあるが考察を行なっていく。



●〈差延〉は多義性・多元性を有する概念


 フッサールの超越論的哲学を扱った『声と現象』においてデリダは、「『現前性』に立脚する『直観主義』は、それ自身を構成している『時間化』ならびに『間主観性』の記述によって動揺させられている」という旨を語ったのであるが、それは「時間」を構成する要素と「主観」を構成する要素との間には、それぞれに「非−現前的」な要素が介入してくるということを指摘してのものだった。

 すなわち、「時間」と「主観」は、現在性において、直接結びつけることは適わないのである。


 このようなデリダの姿勢こそが、〈差延〉が、言語論的な意味合いの他に、どのような「概念」であるのかを具体的な形で示しているのだと言えよう。

 だが、当然ながらこれだけでは問題は解決しない。“主体”と“客体”との関係を「ロゴスを廃した」形から論じようとするためには、別の角度から、すなわち「存在論的な」立場から〈差延〉のあり方を位置づけなければならないからだ。



●「暴力」の区分とデリダのスタンス


 この問題を考えるのに格好なデリダの著作は『法の力』だ。なぜならば、“他者性”の問題が最も確実な形で押し寄せてくるのは、法=規定された権力/暴力が働く場合に他ならないからである。


 人間が動物である限り、「暴力」は不可避的に存在するが、とりわけ20世紀に入ってから、「暴力」は特別なスケールを帯びるに至った。20世紀における「暴力」は、究極の所ではナチズムによる「最終解決」という「絶滅」にも通じる「存在論的」危機に繋がるという歴史的な悲劇性を有したことは記憶に新しい。


 『法の力』の第一部では、カフカの『掟の門前』の問題が語られ、そこに内在する三つのアポリアが呈示される。それは、「規則のエポケー」、「決断不可能なものに取り憑かれること」、「知識の地平を遮断する切迫性」と名指された三つの問題である。
 そしてこれら提示された問題について考えていくために、デリダは『法の力』第二部で、ベンヤミンの『暴力批判論』を具体的な道筋において読み解いていく。


 『暴力批判論』において、ベンヤミンは暴力を「(ギリシア神話的な)神話的暴力」と「(唯一神ヤーヴェを思わせるユダヤ的な)神的暴力」という具合に区別するのであるが、このような二極的とも言えるベンヤミンの姿勢からデリダは、三つの根本的な問題を見抜いた。


 一つは、「法/権利を基礎づける=創出し定立する暴力」と、「法/権利を維持する暴力」の区別から生じる問題。二つは、「法/権利を基礎づける暴力」と、「法/権利を破壊する暴力」との間の差異から生じる問題。そして三つ目は、正義=目的定立という神的作用の一切に関する原理と、威力=法/権利の定立に関する神話的作用から生じる問題である。


 しかしデリダは当然ながら、これらの矛盾を解決する方法を、ヘーゲル的な止揚によって解決するようなことはしない。問題点を浮き彫りにしたまま宙吊りにするのみである。そしてこれらの矛盾が生じてくる根本の原因を、「法/権利を創出し定立する暴力」が、「法/権利を維持する暴力」を必然的に包み込むと同時に、それと袂を分かつことができないでいることに由来する、とほのめかす。
 つまりベンヤミンの二元論は厳密には二元的なものではなく、一方が互いを飲み込むことで、一元化しつつあるというのである。



●「法維持暴力」と「契約」


 そして同一化した結果の「法/権利を創出し定立する暴力=基礎づける暴力」は、必然的に自己自身を「維持する」ことを要求するようになる。
 また当然ながら、その「定立作用」によって、「法/権利を創出し定立する暴力=基礎づける暴力」は、過去−現在−未来という一連の連関において、絶え間ない自己の反復をも求めはじめる。この「反復可能性」の依拠するところは、「法/暴力」を基礎づけている「契約」にこそあるとデリダは解釈する。


 「契約」とは言うまでもなく、ユダヤ的な絶対神と「個」との間の関係を意味している。『暴力批判論』の末尾には、「Die Waltenende(待ち時間の終わり=到来)」という署名がなされているが、デリダは、この署名に、「法/暴力」を規定する「契約」を見て取り、恐怖する。

 
 そしてこの「反復可能性」は、ロマン主義者たちの、「イロニーを無限に反復させる」ことで「無限者」に近づいていく姿勢と酷似している。ここで注目すべきは、『法の力』において、ベンヤミンと並んで語られるカール・シュミットの思想である。



●「契約」の存在論的=時間的矛盾による「汚染」


 シュミットは、『政治的ロマン主義』において、このようなロマン主義者たちの姿勢を、主体をある特定の「機会」に依拠させているという、「機会原因論」と一括りにし、烈罵を浴びせている。
 しかしまた一方では、シュミットは彼らの姿勢を密かに自家薬篭中のものとし、「機会」を与える存在を「神」から「天才/選ばれた人間」に移し替え、結果的にファシズムに傾倒することで、ロマン主義的思想の弱点を克服し、アクチュアリティを持たせようとした。


 これはまさしく、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で言及する「ファシズムは政治の美学化である」という命題の実行である。そして、現実にファシストたちは、問題に立ち向かうにあたってやすやすと、「最終的な解決」を選択した。


 『法の力』において、デリダはこのようなベンヤミン=シュミット的な姿勢の問題点を、「定立作用」と「維持作用」との間の対立ではなく、それらの差異を延長したところに生じる「汚染」にあると指摘する。ベンヤミン自身はそのことを明確に名付けてはいないものの、「法/権利の核心部には何か腐ったものがある」と書く形である種の態度表明を行っている。
 そして言うまでもなく、その「汚染」を除去するためには、当然ながら「定立作用」の無限反復を根本的に取り除く必要がある。これはもちろん、「神的暴力」の可能性=“存在”を根本から否定することに他ならない。


 デリダの〈差延〉概念には、この「存在論的=時間論」的矛盾を指摘するという作用も含んでいる。これが〈差延〉概念の第二である。



●頽廃した「存在論」から「非‐存在=幽在論」へ


 だが、これで終わりではない。「存在論」を語るならば、当然ながらその反対、すなわち「非‐存在=幽在」論についても語らねばならないからだ。
 『暴力批判論』を読み解いていくうえで、デリダは「法/権利を制定する暴力」に内在する現前化された暴力の発露を「警察」に置く。しかし、「警察」は制定の起源=自然状態において発生したものではなく、あくまでも「法措定暴力」と「法維持暴力」との間の矛盾を解消させるために生まれた「精神的/霊的な」もの、すなわち「亡霊」に過ぎない、とデリダは指摘する。
 「亡霊」は「自然」から発生した状態ではないために、言い換えればあくまでも人工的なものであるために、必然的に頽廃する。とりわけ、それが、実体を持った政治形態である「民主主義」においては、暴力の考えられる最大の腐敗として機能する。


 これはすなわち権利の原理の頽廃であり、そのことを浮き彫りにするのが〈差延〉概念の第三の作用、「非‐存在=幽在論的」〈差延〉である。



●まとめ


 以上のように、デリダの〈差延〉概念は、①「言語論的」だけではなく、②「存在=時間論的」、③「非‐存在=幽在論的」の三種類に分類することができる。


 ポストモダンなる概念が一般化することで、そうした概念が存在したことそのものが、彼方へと忘れ去られようとしている昨今において、〈差延〉のパフォーマティヴな実践を読むための基礎的なリテラシーもまた、過去の遺物として忘却されようとしている。
 だが、少なくとも〈差延〉が望んでいた、マルチプルな次元での可能性は見過ごされるべきではない。
 さもなければ、言説は非常に貧しくなってしまうことだろう。