ラリィ・マキャフリイ『アヴァン・ポップ』


●ポストロックとスタンス


 最近、"65daysofstatics"というイギリス・シェーフィールド出身のバンドに嵌っており、もっぱらこればかり聞いている。いわゆるジャンルとしてはポストロックに分類されるらしいが、ポストロックとは何であるのか、正直なところよくわからない。Wikipediaによれば、もはや死語扱いされている(個人的には、そんなことないと思うが)ポストモダンというタームが結局のところよくわらないのと同じことだろう。ただ、ジャンル名とは別に、ハードコアを聴き慣れた耳には、音の解体の仕様が非常に心地よいのだ。


・65daysofstatics"Retreat! Retreat!"
http://www.youtube.com/watch?v=WneDU-K3Sww


・65daysofstatics"Await Rescue"
http://www.youtube.com/watch?v=VhmyW4Tkkb0


・65daysofstatics"Radio Protector"
http://www.youtube.com/watch?v=_qSptlkMuC8


 ポストロックという呼称の軽さから、妙なものを想像してた私が間違っていた。もともと、メタルやグランジは聞けても、どうもノイズやプログレがいまひとつ得意になれなかったのだが、"65daysofstatics"はそこのところ何か芯がある。基本、8ビートがあって崩しているから、とかそういう意味ではない。どちらかというと技術よりもスタンスの問題ね。自らたのむところとする各個たる美学を決して譲らない。というスタンス。


 そう、スタンスは大事なのですよ。


 スタンスと言えば、パンク。もともと、セックス・ピストルズザ・クラッシュの例を見ても明らかだが、パンク・ブームには仕掛人なる存在がいた。エージェントが裏で色々と手を回してくれたからこそ、単なるチンピラ集団だったはずのピストルズも、パンク・ムーヴメントの代表選手として世に出ることができ、一躍時代の寵児としてのし上がることができたのだろう。
 ただ、表面的にエージェントを利用しながらも、パンクの方々は、ただ言いなりになって飼われているだけではなかった。ジョニー・ロットンが1年かそこらでセックス・ピストルを放り投げたのは、おそらくは、制度を破壊するつもりの試みが、知らず制度と化してしまうことに耐えられなかったからだろう。
 一方、「仕掛けられた」のではなく時代の必然として世に現れたニルヴァーナのボーカルカート・コバーンが、ドラッグに狂い自分の頭を撃ち抜いたのも、結局のところ最後まで自分の「自由意志」に従ったからにほかならない。


 セルバンテスの『ドン・キホーテ』から、シェリングの『人間的自由の本質』から大江健三郎の『われらの時代』に至るまで、各々のスタイルは違えども、自由を求めた挙句に、その試みがより大きな存在に抗いきれずに自滅するというのは、ほとんど定型のごとく繰り返されてきたお馴染みの事例だからだ。あくまでも愚直に、自らのスタンスを貫き通すという馬鹿正直な誠実さ。これはこれで、半ば斜に構えてしまいながらも、その実、非常に共感するところ大なのである。


●アヴァン・ポップはカオス理論ならず


 本題に入ろう。
 ラリィ・マキャフリィの野心的な批評集、『アヴァン・ポップ』を読み込んだ。ある種の性格の書物は、私にとって、ほとんど思考を必要とすることなく脊髄反射的に読み進むことができるのだが、これなぞ、その典型である。わかりすぎるほどわかってしまうのだ。
 ただし、どうもそういう好意的な読者ばかりでもないようで、80年代的(に軽薄)な空気の残滓のみをこの本に見出し、本文に目を通しもしないで浅はかに大上段から切り捨てられる。そのような、不幸な事態をも招いているようだ。
 もっとも、「批評の批評」は、「小説の批評」に比べて遥かに簡単なので、書こうかどうか凄く迷ったが、この本の意義は少しでも広く伝えた方がよいと思い、無粋とは思いながらもいくらか思うところを記してみた。少々長くなるが、辛抱いただければ幸いだ。


 はじめて私が「アヴァン・ポップ」なる言葉を聞いたのは、確か大学に入りたての年だから、2000年ごろ。もう8年も前になる。

 先生曰く、「最近、若者を中心に都会の、フリーターとか専門学校生の日常を描いたこじんまりとした小説が流行している。彼らには驚くほど教養がない。吉本ばななとか、村上春樹とか、そのあたりの流行りの小説を小手先で真似ているだけだ。聞くところによると、『アヴァン・ポップ』などと言われてもてはやされているようだが、私に言わせれば、<実存>に食い込むことができていない一過性の流行現象に過ぎない」みたいな解説がなされていた。

 ふふんそんなものなのかしら、と思いつつ、暇を持て余すダメ学生だった私は、馬鹿みたいに生真面目にノートを取っていたものだが、ノートを破棄してしまったいまでは、ほとんど記憶に残っていない。
 ただ、そのとき聞いた「アヴァン・ポップ」なる聞きなれないジャーゴンだけは、妙に頭に残っていたのだった。


 その後、日本産・外国産を問わず、色々と手広く小説を読むようになって気がついたのは、先生はおそらく、90年代後半の日本の文芸ジャーナリズム(の一部)でもてはやされた、「J文学」なる怪しいタームと、「アヴァン・ポップ」とを混同してしまっていたように思う。

 別に、先生を糾弾しようというのではない。それだけ、「アヴァン・ポップ」というタームは、チャラチャラした小手先のムーヴメントとして理解されていた、と言いたいのだ。「アヴァンポップ」は、何か目新しく、おのぼりさんみたくチャラチャラしていて、それでいて万華鏡のように映った光景を乱反射させるがゆえ、捉え難い。まさにキメラだ。逆を言えば、そうしたものに名前を与えるためのいわば仮称として、「アヴァン・ポップ」なる用語は発明されたのだろう。

 ただしそれは、単なるカオスを意味するわけではない。半ばカオスの濁流に身を任せながら、そのうちへ完全に飲まれることなく、むしろ内側から制度を食い破るような試みを意図している。


 もちろん、「アヴァン・ポップ」とは文芸批評の用語である。それゆえ理論的に精緻な何かたらねばならないのでは、と思われがちかもしれない。だが、それは違う。真に批評的なタームとは、批評理論のメカニズムの単なる構成要素に終わるべきではないのだ。とりわけ、「アヴァン・ポップ」とは構造ではなく、スタンスを、作品に宿る魂そのものを意味している。それゆえ、拡散する概念として理解されなければならない。



●源流としてのサイバーパンク


 そもそも、巽孝之センセの『サイバーパンクアメリカ』を読めばわかるが、「アヴァン・ポップ」の提唱者ラリィ・マキャフリィは、もとは「サイバーパンク」の理論的支柱の1人であった。しかし、彼が何か80年代的にバブリーな最悪の意味で(現在ならばネオリベとか言うのだろうか)「サイバーパンク」を、そして続く「アヴァン・ポップ」を主導したわけでは全然ない。
 少なくとも、『サイバーパンクアメリカ』にて描かれていたようなマキャフリィの姿と、「アヴァン・ポップ」についての批評的エッセイをまとめた『アヴァン・ポップ』にて描かれるマキャフリィの姿には、何ら転向めいた姿勢は見えず、きちんと一本、線で結ばれるような共通したものがある。


 もちろん、香具師めいたいかがわしさはないわけではないが、それは例えば、スラヴォイ・ジジェクが盛んに主張する「政治的な身振り」ではなく、どこか「そうせざるをえない」という悲壮感が漂っている。それは、身体を張って新しいがゆえに混沌とした「何か」をすくい取ろうとしているという、誠実さの裏返しであると言ってよいだろう。時代の変化とともに、80年代にはその「何か」は「サイバーパンク」と呼ばれ、90年代には「アヴァン・ポップ」と名付けられる。いわば、それだけの違いにすぎない。


 そもそも「サイバーパンク」とは、1980年代中盤に始まり80年代の終わりに終結したとされる、SF文学内においての革新運動のことを指す。

 80年代以降、飛躍的な発展を見せたコンピュータ・テクノロジーと、サイバネティックス情報工学)やナノテクノロジー(超微少技術)の進展による人間性の根本的な変化を、ハードボイルドのスタイルやロック美学を軸に繋ぎ合わせることで、「サイバーパンク」はまったく新しい世界観を作り出すことに成功したのだ。


 それまでも、アルフレッド・ベスター『コンピュータ・コネクション』、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア接続された女』、ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』、ハーラン・エリスンの諸作品など、「サイバーパンク」のはしりとされる作品は多く存在するが、それがある種の「運動」として結晶化されたのは、やはり80年代に入り、『ニューロマンサー』のウィリアム・ギブスンや、『スキズマトリックス』のブルース・スターリングらの活躍を介してであろう。


 彼らはまさに、革命児だった。


 なぜ「サイバーパンク」は革命だったか? それは、たとえば「スペースオペラ」などといった、他のSFサブジャンルとは異なり、「サイバーパンク」のみが、SFというジャンル内において、ほぼ唯一未来を予言し、的中させることができたというところにある。私たちは、「サイバーパンク」が顕在化した世界に生きているのだ。


 「サイバーパンク」は、ニューウェーヴSFの精神を継承している。ニューウェーヴSFとは、イギリスの作家J・G・バラードやブライアン・オールディスマイクル・ムアコックを中心とした気鋭の作家陣が、それまでの科学合理主義一辺倒のSFを痛烈に批判し、テクノロジーにおける人間性の変容そのものに焦点を当てることで、過度な商業主義の進展のもとに失われつつあったSF本来のダイナミズムを取り戻そう、という動きのことを指す。

 バラードのエッセイ『内宇宙への道はどちらか?』にある、「真にSFといえる最初の作品は、浜辺に寝転んでいる健忘症の男がさびた自転車の車輪を前にして、両者の関係の究極にある本質を見出そうとする、そんな話になるはずだ」という有名な文句が、ニューウェーヴの立ち居地を端的に表象している。


 こうしたスタンスはヴェトナム戦争を経て、80年代に入り、レーガンサッチャー政権に伴い世相が保守化を遂げていくとともに、より切実な問題とみなされるようになってきた。スペースシャトル内で人間が1年過ごせるようになり、チェルノブイリ原発が大規模な事故を起こした。とりわけ、パーソナルコンピュータやFAX通信の発展は、個々の人間とテクノロジーとの距離を、一気に縮めることとなった。こうした過程を経て、ニューウェーヴ的な「人間性の変容」が、パンクロックとストリート美学の融合を経過した、まったく新しい形で模索されるようになったのだ。


●予見と境界解体


 ゆえに「サイバーパンク」とは、テクノロジー社会のストリートを生きるピカレスク・ヒーローのことを指すとともに、旧来のSFや保守化しつつあった社会に対し、旺盛な反骨精神を発揮した作家たち自身のことをも指す。
 ジャンルや社会そのものへの批判意識と萌芽しつつあった高度資本主義下においての情報技術の進化の過程がうまく結びつき、結果的に、World Wide Webの発達に顕著なユビキタス社会の到来を、作品を通じて予見することに成功したのである。


 さて、以上述べたような成立事情から、「サイバーパンク」は、まずはジャンル内の革新運動として生を享けた。作家たちも好んで過激なパフォーマンスや論陣を張ったためか、思想・運動としての「サイバーパンク」の側面のみが取り上げられ、過度な注目を集めることとなったのである。
 そのあたりの記述は、先に述べた『サイバーパンクアメリカ』に詳しい。


 そして、「サイバーパンク」の理論的な支柱であったスターリングの編んだアンソロジー『ミラーシェード』にちなんで、これらの作家たちは「ミラーシェード・グループ」と呼びならわされた。しかし、ミラーシェードグループ外からも、サイバーパンク的な意識は共有されつつあったのは確かであった。

 例えば、リドリー・スコットの映画『ブレードランナー』は、ミラーシェードグループとはまるで関係ない文脈で作られたものだが、驚くほど「サイバーパンク」的な問題意識のもとに製作がなされており、その意味で、ミラーシェードグループと時代性を共有していると言える。


 「サイバーパンク」が突きつけた独自の美意識と、「テクノロジーによって変容を受ける人間性」に関する批評意識は、小説や映画の世界のにみ留まらず、美術・ファション・建築・現代思想・ゲーム・コミック等の分野に、絶大な影響を与えてきた。


 なかには、テクノロジーの源流を突き止めようという観点から、産業革命時代の歴史の「もうひとつの可能性」を提示しようという「スチームパンク」という運動まで現れた。「スチームパンク」の多くでは、産業革命期のヨーロッパを舞台に、蒸気コンピュータや大陸横断鉄道などレトロスペクティブな世界観が提示されるが、こうした流れはムアコックの『グローリアーナ』、キース・ロバーツの小説『パヴァーヌ』など、かつて存在した歴史改変小説のジャンルをも、「スチームパンク」の文脈へと、貪欲に取り込むことに成功したのである。


 また、若いメディアであったゲーム文化にも、「サイバーパンク」は絶大な影響を与えた。
 ミラーシェードグループの世界観を、ゲームならではのシミュレーション性をもとに極めて精緻にRPG化した『サイバーパンク2.0.2.0』、トールキン風のハイ・ファンタジーと「サイバーパンク」をミックスし、人権問題への風刺精神を打ち出すことに成功した『シャドウラン』などが、その代表作と言える。
 が、なかでも注目すべきは、スティーヴ・ジャクソン・ゲームズの『ガープスサイバーパンク』であろう。このゲームは、開発担当者のなかにハッキング関係の掲示板に出入りしていた者がいたということから、アナーキスティックな暗号文書ではないかと検察の調査を受けたのだ。若いジャンルであったロールプレイングゲームと、同じく斬新な概念であった「サイバーパンク」との関わりが、一般社会においてどのような捉え方をされていたのかを示す実例として、非常に興味深い。


スターリング『ハッカーを追え!』より、スティーヴ・ジャクソン・ゲームズ事件関連箇所
http://hw001.gate01.com/katokt/crack2nj.htm


●高度情報化時代における習合運動の形


 そして、「スチームパンク」が仮にテクノロジーの原点を探り当てることで、テクノロジーと人間のあるべき姿を模索しようという試みだったとすれば、「アヴァン・ポップ」は、「サイバーパンク」の有していたテクノロジーと身体・性差・都市と郊外・芸術の諸ジャンルを解体するものとしての境界文学的な側面を、より押し広げるという宣言にほかならない。それは、加速度的に資本主義経済が蔓延する時代における、内側からの抵抗とでも例えるべきものである。時代の趨勢をあえて受け入れつつも、さながらウィルスのごとき勢いで、ダイナミズムを逆用する。それが、「アヴァン・ポップ」の試みなのだ。


 現に、批評集『アヴァン・ポップ』の日本語版が発売されたのは、1995年のことであったが、当時のアメリカ文学の尖った連中が、まるごと「アヴァン・ポップ」として取り込まれている。


 「ピンチョン以降のポストモダン」として、ウィリアム・T・ヴォルマンの言及があれば、ギブスン&スターリング、キャシー・アッカー、スティーヴ・エリクソンのインタビューが掲載される。

 そうかと思えば、ザ・クラッシュのパンク美学、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに始まるカットアップ/サンプリング/リミックスの流れを駆動力として、SFのテクニックを現代文学における最前線の運動として定義し直す。身体と性差の二項対立は簡単に解体され、カバーに描かれているような、ナチのガスマスクと全身ラバーの人間が、それこそ谷崎潤一郎から連綿と続く日本的フェティシズムの最新系として提示されるわけだ。


 こうした貪欲な試みは、12年後の2007年に刊行された『アヴァン・ポップ 増補新版』においては、アヴァン・ポップの「抵抗の理論」としての側面に注意を向け、ネオリベラリズムに対抗するための、トロイの木馬めいた方法として、最提示されることとなる。なかでも、スポットライトが当てられるのは、笙野頼子が『金毘羅』で記した、以下の文句だ。

我は幸いなり、我は金毘羅、ハイブリッド神にしてアヴァン・ポップ!


 日本において、明治政府の樹立以降の「近代」が意図的に捨象してきた雑居性、八百万の神々と「森川草木悉皆成仏」という仏教の理念が、〈個〉のための抵抗原理として読み替えられるということだ。


 かような高度情報化時代における習合の論理のもたらす広がりを、『アヴァン・ポップ 増補新版』では、差別語問題で断筆中の筒井康隆のインタビューや、巽孝之の弟子たちの対話によって、90年代に流行したコミックやアニメが、ガーリッシュ・ポップな観点のもとに列挙される章を追加することで補完しようとした。ただ、個人的には、アヴァン・ポップは、これら肥大化する商業主義のアイコン的な活動によって代弁させられるべきではない。
 もっと、注視しないと商業主義の陰に呑みこまれてしまうような、尖った、それでいて優れた作品群にこそスポットを当てるべきではないのか。


 例えば、先日私は、向井豊昭氏から個人誌(限定30部発行)の「Mortos」1号・2号を送付していただいた。ここに書かれている作品群は、まさに「習合」としての「アヴァン・ポップ」を、そのまま体現している作品だ。


・「Mortos」1号の書影
http://d.hatena.ne.jp/elieli/20070923


・「Mortos」2号の書影
http://d.hatena.ne.jp/elieli/20071027


 とりわけ、「Mortos」1号に所収の小説『熊平軍太郎の舟』は神話の原型のごとき大地母神の表象を、洒脱なユーモアとともに描いた傑作で、手書きによって文体から贅肉がすっかり剥ぎ取られた結果、イメージの彫りが、極めて深いものとなっている。『熊平軍太郎の舟』の近辺から、印象的な場面を引用してみよう。

 毒々しい乳が、波のように流れ込む。癌細胞に犯された肝臓は、解毒のための力を失っていた。
 腫瘍が揺れ、肝臓が揺れる。母の笹舟となった体が揺れ、放り出された軍太郎は、乳首をくわえたまま沈んでいった。
 膝の角度を鋭角にさせ、床の上に沈んでいく軍太郎の身体に合わせて、母の身体も乳首を含ませたまま沈んでいった。


 ここでは、江藤淳が『成熟と喪失』で描いたような、母性への「甘え」に依拠した弱さは、根本から覆される。神話的なダイナミズムが、習合の力によって現代に蘇り、表層の戯れと化して縮小再生産を続けるだけであった「甘え」の問題を、根底から飲み込んでしまったのである。向井は、安易な解決なぞ与えず、さながらケルト神話におけるコナハトの女王メイヴのごとき絶望と狡猾さの象徴としての母へ神性を付与することで、なまなかな問題系を一瞬にして草木の生えぬ荒野へと変えてしまう。
 さながら、こうした荒野からしか、二項対立を「宙吊り」するような、俗流デリダ式の生ぬるさを根底から覆す可能性は生まれない、とでも言いたげである。あたかも、ブルース・スターリングが『スキズマトリックス』のラストで示したがごとく。


 「サイバーパンク」精神と(仏教的な)習合の融合。そうした事例がよりはっきりと確認できたのは、今年8月31日に世界SF大会ワールドコンNippon2007)にて開催されたパネル、「アヴァン・ポップ」内においてであった。いずれ、そちらもまとめて解説したい。そして、『アヴァン・ポップ』が切り開いた地平を、再確認してみたい。


アヴァン・ポップ 増補新版

アヴァン・ポップ 増補新版