ポール・ド・マン『理論への抵抗』


 誰にも信じてもらえないが、私は実はポストモダニストだ。
 デリダ大好き。アメリカンなデリダ派といえばこの人、ということで、ポール・ド・マンの『理論への抵抗』を読む。

 〈デリダ(受容)以降〉のアメリカ・ポストモダン論壇においては、価値相対主義や異なる分野同士の構造の類似性を分類する作業が進んでいたが、一方で、抜け落ちてしまうものもある。
 仮に、「言葉」を「情報」と置き換えてしまう際、何かが確実に消えてしまう。それはいったい、何なのか? というわけだ。


 そのあたりを考える際、多くの思想家は、「言葉」に内在する「イデオロギー」にのみ焦点を当ててきた。それは、ある意味正しいのだろうが、「イデオロギー」を醸造するものは、「言葉」に内在する精神ではなくて、むしろ、「言葉」の言い回し、すなわちレトリック(修辞)そのものなのではなかろうか? ということがド・マンの主張である。
 このレトリックを「語り口」の問題と捉えれば、加藤典洋の『敗戦後論』にある、ハンナ・アーレントルポルタージュイェルサレムアイヒマン』をめぐる話に通じるのだろう。
 その意味でアクチュアリティは高い。だが、同時に微妙なところもあるのは確かだ。


 現に、ド・マンの、テクスト万能主義的な土壌をベースにしたとおぼしき方法論は、いまではひどくロマンティックなものに見える。「世界がテクストでできている」などという主張は、あまりにも牧歌的ではないか。Webが世界を座巻したいまであるからこそ、テクストの優位性はまるで信を置かれなくなってきたように思える。
 おそらく我々はWebを読むとき、プラウザに記されたテクストそのものには、さほど注意を向けていない。Webと現実の差異が、古式ゆかしき二項対立として顕現されてしまっている。それゆえに我々は、Webの裏にある書き手の思惑そのもの、Webに回収されないほうにこそ、目を向けていると思われる節があるのではないか、と思えてならない。
 たぶん、あまりそれはよい論調ではない。ダナ・ハラウェイが『サイボーグ・フェミニズム』を書いた際に提示された、Webと身体、情報と現実の融合の可能性は達成されえず、同じところを堂々巡りしているということであるからだ。「スペキュレーションを欠いた世の中」であるのも、まったくむべなるかな、といったところだろうか。J・G・バラードの『夢幻会社』が恋しくて仕方がない。


 だが私がどれだけド・マンを知っているかというと、それこそ素人の生齧りなのもまた事実だ。
 というわけで、ド・マンの思想のより細かな部分や、彼の立っていた微妙な位相を知るため、巽孝之『メタファーはなぜ殺される』を読み、現代アメリカ思想史をざっと俯瞰してみたところ、考えが変わった。それこそ〈デリダ(受容)以降〉というフレームを(あえて)取り払ってもなお、ド・マンの有していた「拾う」感覚が機能する側面はあるのではないかと思ったのだ。


 おそらく我々は、驚くほど修辞のための修辞といった観念に踊らされている。その修辞は、美学あっての修辞ではなく、ましてや特定のイデオロギーを伝えるための修辞でもない。
 言葉遊びを繰り返した結果、なんの意味もなく生まれた修辞、つまりは修辞そのものの抱く目的とは離れた、畸形としての修辞なのだ。こうした畸形化した修辞の群れは、自らを狭く、小さく囲い込む。そうして囲い込まれた言葉同士の交通の便をよくしようというのが、昨今、多くのポストモダニストが主張していることだが、私は少し考えが違う。


 修辞が機能する場というものこそが、新たに求められているのではないか。文芸シーンに限っても、その必要性はとくと感じられてならない。とかく軽薄なものとして語られがちなポストモダニスト、あるいはド・マンだが、ポストモダンの可能性は、いまいちどモダンというフレーム、すなわち歴史性を生かした形で、つまりは価値相対化のみならず、価値創出的なものとして、捉え直されるべきではないのか。
 レトリックに関する「拾う」感覚というものはかような文脈から発揮されてこそ意味を持つもので、それでこそはじめて、哲学を安易に行使することによる暴力性の発露、というくびきから逃れられる一点が見えてくるのだろう。

 久しぶりにド・マンを読んで、かような所感を抱いた次第。

理論への抵抗

理論への抵抗

サイボーグ・フェミニズム

サイボーグ・フェミニズム

夢幻会社 (創元SF文庫)

夢幻会社 (創元SF文庫)