小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』


 気鋭の若手社会学者、小熊英二の主著。戦前〜1970年頃の社会思想史を概観しながら、代表的な論客の発言及び行動を同時代の状況と共に提示していくことで、とかく観念的・抽象的なものとして任じられがちな「戦後民主主義」について具体的な俯瞰図を提示する内容となっている。
 社会思想史ではあるが、イデオロギーの種別よりも、イデオロギーの「闘争」について語っているのでわかりやすい。そして、丸山真男竹内好に代表される大物らの戦中から戦後に活躍した人たち、つまりは現在では教科書的に学ぶくらいしかアプローチのきっかけがない人々について、詳しく書かれていて、非常に面白い。原稿用紙換算で2500枚を一気に読ませる筆力がある。


 「太平洋戦争」が揺るぎなき特異点として設定されている書物である。時代が進むにつれ、特異点を離れていくことで、思想が強度を失っていくといった歴史観が本書の根幹には根付いているようだ。
 そうした強度の変化(退潮)によって、左翼性というものはぐんぐんねじれていき、そうした「ねじれ」は60年安保で最高潮を迎えることになる。加えて、いわゆる連合赤軍事件やそれに伴う高度消費社会の発展が入れ替わって訪れることになるというわけだ。
 この「ねじれ」の位置づけは面白いが、安保で最高潮を迎える思想的な強度がいつの間にか拡散し、いわゆる68年革命は安保の戯画化でしかなくなる。やや奇妙な印象を受けるタイトルが、ここに来てはじめて納得のいくものとなる。
 

 ただ、筆力のみならず、本書のリーダビリティの高さは、語る対象に転移せず、あくまで行動を通して思想の動きを語るというアプローチの方法に根付いている。もちろん、それゆえ問題もある。知らないネタは楽しく読み物として享受できるが、いざ知っているネタにかかると首を捻ることが多いのだ。
 例えば江藤淳吉本隆明、それぞれについて1章が割かれているが、僕は彼らの著作に少なからず親しんでいるので、どことなく記述に胡散臭さを感じないではないのだった。
 出生から育ちから左翼運動から何からについて、あくまで外堀から彼らの思想を語ってゆくがゆえ、いまひとつ深みにかけるところがある。対象に「転移」しないがゆえの弱さだろう。


 イデオロギーの本質について考察せず、イデオロギー「闘争」のみでしか思想家を取り扱わないので、結局のところ図式的な理解は得られても、図式そのものが単純化されているきらいがある。それゆえ、これを「教科書」とすることはできても、いざ、過去の歴史的なテクストを再読して何かを考えようという契機が、どれだけ巻き起こるのか、疑問の念に駆られてしまう。
 つまり、どうしても歴史哲学的な底の浅さを感じてしまうのだ。
 結局読後に残るのは、吉本隆明=「団塊のヒーロー」、江藤淳=「フィクショナルな自己の演出」という、ありきたりな図式となってしまうのではないか。
 いちどこうした意地悪な観点が兆すと厄介だ。薀蓄本としては最高だけれども、思想書としては、ほんの僅かに物足りないように思えてくるからだ。考えるべきは「立ち居地」よりも、「実存」そのものではないのか。


 僕は野間宏坂口安吾大江健三郎のような、戦争の記憶に憑かれながら、死とセックスと血と泥とを彷徨う戦後文学に、密かに惹かれている。否応なく、「現代的」な自閉を解かされ、ざらざらした地平に放り出される、理不尽な暴力と正義の不在という光景にこそ、リアリティを感じるからだ。
 そして、背負わされているものに遥かに広がりや重みを感じるがゆえに、現代において、そららの作家を再読する意義は根ざしていると思う。


 こうした「背負わされたものの重み」が、「ふーん、前の世代はそうなんだ」と、共感を欠いた形でしか理解できなくなるのではないかと、僕は密かに懸念する。
 つまり、小熊史観には、世代間対立史観の臭いを嗅ぎ取ってしまいたくなるというわけだ。世代間対立史観はとてもわかりやすいし、ついつい使ってしまいたくなるけれども、反面、危険なものではないか。


 レーオポルト・フォン・ランケに『世界史の流れ』という、歴史哲学の方法論を考えるための好著があるが、『〈民主〉と〈愛国〉』が示す、豊富かつ多彩な文献資料に基づいた浩瀚かつ微細な情報は、歴史哲学的な方法論と併行して初めて、身を結ぶものではないかと思う。
 無論、本書が力作であることは否定しようがない。否定しようがないゆえ、後一歩、何かを求めたくなるのである。贅沢だろうか。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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世界史の流れ―ヨーロッパの近・現代を考える (ちくま学芸文庫)

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