既に各紙で報道されたようなので、 ご存知の方もおられるでしょうが、アラン・ロブ=グリエが亡くなったようです。先日もロブ=グリエの『快楽の館』を読み直していた最中だったので、正直のところ、茫然自失となりました。
カート・ヴォネガットが死んだときには、「ああ、逝ったんだな」という以外、特別な感興はわかなかったのですが、今回の件でのダメージは、かなり大きいものがあります。勝手な思い込みですが、戦友を亡くした気分と言ってしまってよいでしょうか。氏の作品を毎年、何度となく読み返しており、生きるうえでも、ライティング活動でも、糧のひとつとしておりましたので。
私はいわゆる「ヌーヴォー・ロマン」直撃世代ではありません。「2000年に18歳になった」世代に属しているので、マルチメディアによって物語の、そして物語を受容する人間の認識のレベルが、飛躍的に向上するかのような期待感に囲まれて育ったところがあります。
その期待が正しかったかどうかはさておき、いわゆる「ヌーヴォー・ロマン」が、もう圧倒的に「終わった」時点から、ロブ=グリエを読み始めなければならなかったのは確かです。つまり、もともとは「ヌーヴォー・ロマン」になにひとつ積極的な期待を抱いてはいなかった、というわけなのです。それゆえに、彼を神格化したり、崇拝したりという愚を冒さずに済みました。現に、はじめて触れたロブ=グリエ作品は、「早稲田文学」2002年7月号に収録されていた、『反復』の抄訳だったのです。50年送れてやってきた、ヌーヴォー・ロマンの受容者です。
それでも、はじめて『反復』を読んだときには打ちのめされました。作品そのものが、圧倒的な強度で「歴史」を背負っていたからです。
正直に言えば、はじめは偉そうな実験小説を小馬鹿にしてやろう、程度に思って読み始めたのです。だが、そこにあるのはチャチな実験などではありませんでした。
書かれていたのは完全に、「いま、ここ」についてだったのです。
それでいながら、例えば映画やゲームなど、小説以外のメディアにも共通する、ある種の本質を抉り出していたようにも思えたのです。
現代に生きる者は、多様なメディアに接し、圧倒的な量の情報の洪水を掻き分けながら、生きるうえで、否応なしにその本質を見抜くべく努めざるをえない宿命にあります。
そのような悲喜劇的状況を、もっとも早い段階(1950年代)から提示し、そのことを作品内に取り入れることで、見たこともないほど刺激的なヴィジョンを提示した。それがロブ=グリエの作品ではないかと考えます。
「思想」的な意味合いを抜きにしても、読書の目的を、「目的の探求」から、「探求の過程」そのものへとシフトさせたという点でも注目に値する、と言えるでしょう。
ただ、ロブ=グリエほど誤解を受けてきた存在もおりません。彼はもともと、プロレスのヒールのように、誤解を引き受けることでジャンルを引き立たせようとしてきたところがありました。
しかしながら、近年の誤解は、それとはちょっと質が異なります。小説作品の「質」が問われなくなり、作品の「部数」のみが相手にされるようになったとき、ロブ=グリエの問いは考えられることすらなく「右から左へ受け流す」ことで、スペクタクル化され、消費されて終わってしまうこととなるでしょう。
現に日本のメディアにおいても、かつてロブ=グリエが提示していた問題系に対する誤解はいまでも根強いようで、今回の訃報でも、一部メディアにおいては、残念な報道がなされました。
この場で具体的に名指しはしませんが、例えば以下の認識が不足しておりました。
・ロブ=グリエは50年代〜60年代以降も作品を書き続けておりました。とりわけ『快楽の館』以降の作品は、アカデミスティックな研究が追いつかない(必ずしもアカデミックな作品分析のみでは読みきれない)ほど、形式・思想のスピードが「速い」ものであり、言語ゲームとしての構造は解析されておりながらも、現代において小説形式の可能性を追求するという意味では、いまだ研究が追いついてはおりません。それゆえに、現在でもなお注目に値すると言えるでしょう。
・もともと、ロブ=グリエは、ベケットともシモンとも党派を組んでいたわけではありません。「我々の共通点は、本を出した会社が同じというだけ」と、自嘲したことすらあるようです。もちろん、小説形式の刷新という意味では、仲間意識のようなものはあったでしょうが、それを党派性にまで還元することで、安易に政治的な「派閥」となってしまうことは、ロブ=グリエがもっとも嫌ったことのひとつでした。
・「ヌーヴォー・ロマン」は、意図的にストーリーの一貫性を乏しくしたり、心理描写を欠いたようにしているなどと、まるで奇をてらっていたかのように言われているようですが、それは間違いと言っていいでしょう。なぜならばロブ=グリエの方法は、小説ジャンルの反復=更新の可能性のひとつということであり、歴史を意識した場合、避けることのできない方法であると言えるからです。
そもそも、小説というジャンルは言葉だけである程度の「構造」を組み立てなければならないジャンルで、それゆえ非常に保守的なところがあります。実際、16世紀に近代小説という形式の萌芽が生まれたときから、21世紀の現在に至るまで、基礎的な雛形はほとんど変化を見せてはおりません。ただ、ロブ=グリエは違います。彼は果敢な実践にて、小説というジャンルそのものを変革させようとしたのでした。少なくとも、その先陣を切った存在ではあります。
・アラン・レネが監督をした映画『去年マリエンバートで』では脚本の執筆をしましたが、脚本だけではなく、後に自身でもメガホンを取っております。なかにはシネ=ロマンという形で脚本を出版したことさえあるのですが、彼のシネ=ロマンは、非常に詳細で、映画や小説(さらにはゲーム)に関心がある向きに対し、非常に訴求力の強いものがあるでしょう。
ためしに、ロブ=グリエの面白さのさわりを味わってもらうため、中期の代表作『ニューヨーク革命計画』(1970)の一節を引いておきましょう。まさに、ポストヒューマニズムといった感じでしょう? ちなみに、この『ニューヨーク革命計画』、いわゆる「68年革命」の形式的なパロディ(ミシェル・フーコーが『言葉と物』で書いたような、「人間の終わり」といった観点での「革命」表現)といった読み方もできるようです。
最初の場面はきわめて迅速に展開される。それはすでに何度も繰り返されたものであることが感じられる。誰もが自分の役割をそらんじているからである。言葉や動作がいまではしなやかに、連続的に継起し、油の十分利いた機械仕掛の必要不可欠な部品みたいに、なんのひっかかりもなく相互に連繋する。
ついで空白、からっぽの間、長さの不定な休止の時間があり、その間はなにも、これから起こることにたいする期待すらも起こらない。
それからだしぬけに、なんの予告もなしに、筋の運びが再開し、そしてふたたび、同じ場面がもう一度再開される……だがどんな場面か?〔『ニューヨーク革命計画』、三頁〕
さて、こうしたアラン・ロブ=グリエの小説作法とは、非常に隙の無いものです。
つまり、テーマを一点に絞ることで、徹底的に縛りの多い小説というジャンルについて、どうすれば実践レベルから更新の作業ができるか、その試みを1953年のデビューから死ぬまで55年もの間ひたすら続けてきた作家、それがロブ=グリエだと言えるのです。
だから彼は、例えばアカデミックなインタビューに対しては攪乱するような受け答えしかしないようです。「わかっている」人に対しては、インタビューからアイディアを得ることなどもあったようですが、基本的に彼は、「思想」にハッタリ以上の意義を感じてはおりません。徹底して形式的な人なのでしょう。
既存のエンターテインメントの概念を、反復=更新することに、すべてのエネルギーを傾注した、そんな男なのですよ、アラン・ロブ=グリエは。そして、その試みは、否応なしに既存の人間観を問い直す行為にも繋がります。
つまるところ、ロブ=グリエを読むのに、アカデミズムとか文学的な素養なんて関係ありません。フィクションを意識的に受容している人間で、かつ多少の堪え性さえあれば、ロブ=グリエを「読んでやる」ことはできます。少なくとも、新しい世界を堪能できることは間違いないありません。
フランスの小説は、ルイ=フェルディナン・セリーヌやジャン・ジュネのような例外はありますが、基本的に有閑階級の人間が読むものだというイメージが持たれているようです(実際、研究者にそう聞いたこともあります)。
しかし、ロブ=グリエはいわゆる「労働者階級」にこそ、自分の小説を読んでほしい、といったことを言っておりました。おそらくそれは、リップサービスではないはずです。
なぜならば、ロブ=グリエを楽しめるようになるということは、いたずらにテーマとか思想とかを追いかけるのではなくて、既存のフィクションの細部を愛でるという訓練をしたということと同義だからです。
だから理屈としては、ロブ=グリエを楽しむことができれば、他の小説でも映画でもゲームでも、よりいっそう深く享受することができるようになるのでしょう。豊かな読書生活(精神生活)を送るためには、無視できない存在でした。
彼の主張を受け入れるにしろ、部分的に活用するにしろ、作品そのものの価値にある程度の重きをおく限り、ロブ=グリエ的なものは避けようがないというわけです。生活においてすら、そうです。
知人も言っておりましたが、仮にフリーランスで生きていこうと思うのであれば、世界に対する認識の方法として、宗教ではなく文学を通じた異化作用として、ロブ=グリエ的なものの見方とは、絶対に必要であるのです。だから、彼は重要な作家であると断言できます。
例えば、『新しい小説のために』(1963)においては、19世紀にバルザックが「人間喜劇」と呼ばれる一連の作品群によって提示したような、洗練された物語形式としての小説スタイルは、乗り越えられるべき伝統として提示されます。二度の大戦を経て顕現したことは、すなわち、世界とは圧倒的に不条理であり、いや不条理という観念を通り越し、世界はただそこに在るのみとなってしまっているということでした。
つまり、人間は〈自然〉と決定的に断絶しているのです。こうした人間と〈自然〉との間に存在する距離を掬い出し、ギリシア神話的な意味での悲劇として提示することで、〈理性〉的な存在たらざるを得ない人間と〈自然〉との「差異を崇高化」することこそが文学の使命である、と『新しい小説のために』でロブ=グリエは訴えかけるわけです。
だからこそ悲劇的な思考は、決して距離を抹殺しようなどとはしない。それどころか、このんでいたるところに距離を設定する。人間と他の人間たちとの間の距離、人間と彼自身との間の、ものと世界との間の、世界と世界自身との間の距離といった具合に、なにひとつとして手つかずのものはない。すべてが引き裂かれ、亀裂を生じ、分割され、ずれができる。もっとも均質的な対象の内部にも、もっとも曖昧なところの少ない状況の内部にも、一種の秘密の距離のようなものが現れるのである。だがまさしく、〈内的な距離〉、このいつわりの距離こそ実は、公然たる大道、すなわちすでにひとつの和解である。〔『新しい小説のために』、七〇頁〕
この特性はもちろん、彼が撮った映像作品にも共通しております。というわけで、その「おいしい」ところをちょこっとだけ味わっていただこうと、追悼特集として、ロブ=グリエの映像作品の動画をYoutubeなどで探し、まとめてみました。
・『去年マリエンバートで』トレイラー
http://jp.youtube.com/watch?v=YzXIozFK6Cw&feature=related
最新のDVDに付くという予告編。なんど観てもゾクゾクします。
・『エデンその後』
http://jp.youtube.com/watch?v=YauhheIq3Tk&feature=related
この動画は貴重。少なくとも日本では、来日時に日仏学院にてロブ=グリエが講演した際に上映されただけで、VHSなどにはなっていないはず。短いが、彼の映画の本質が凝縮されていると言う意味で、秀逸な映像です。
・『危険な戯れ』(平岡訳では、『火遊び』という仮題で知られていた)
http://www.geocities.jp/paul_michelle_1971/newpage2-75-kiken.htm
紹介サイトではもうボロクソだけど、とんでもありません。
ロブ=グリエの映画の中でも、かなりわかりやすく、舞台の移動もあり、それでいてほどよい安っぽさを忘れず、細部まで創りこまれている。アニセー・アルヴィナも非常に美しい。 こちらは、VHSでけっこう出回っているはずなので、名画をたくさん置いてあるビデオ店ならば、まだ在庫があるはず。西早稲田の『名画座』というビデオ屋には、少なくともありました。
・『囚われの美女』
http://jp.youtube.com/watch?v=2aS_3mY40vc
こちらはDVDに落ちており、現在でも入手は可能です。
ここでUPされているバージョンでは出てきませんが、ボンデージ姿ででっかいバイクに乗る美女という構図は、蓮實重彦の小説『オペラ・オペラシオネル』にて、見事に反復=更新されております。
・『快楽の漸進的横滑り』
http://www.geocities.jp/paul_michelle_1971/newpage2-74-kairaku.htm
こちらはVHSが日本に入ってこなかったので、苦肉の策としてシネ・ロマンの邦訳が出ております。ただ、いまは古書価がかなりお高いことになっているのが残念。復刊を、切に望みます。
・インタビュー
http://jp.youtube.com/watch?v=MKI-LnCKu1I
・『グラディーヴァ−マラケシュの裸婦』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0010OI5ZC/blogsyahoo062-22/ref=nosim
映画の最新作。シネ・ロマンは既に発売されているようですが、実際に映画として撮られ、日本でも販売されるようです。3月に期待!
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ちなみに、ロブ=グリエの小説は『反復』(2001)が最後の作品だと思ってました。ところが、調べてみたところ、どうやら遺作が存在するようです。
・"Un roman sentimental"
http://www.amazon.fr/gp/product/2213632618/ume305-21
で、中身です。思春期の少年のラブレターが主題であるようですが、 ロブ=グリエはキェルケゴール的なモティーフを好んで選ぶ作家でした。とりわけ『誘惑者の日記』が重要だったと、彼は処女作の『弑逆者』を通して語っていたことから勘案しますと、キェルケゴール的な『反復』の主題を乗り越えて、いよいよ『誘惑者の日記』の取り込みにかかった、と判断してよいでしょう。
旧作の復刊とともに、こちらの翻訳も期待したいところです。
ほか、こちらのブログにも、ロブ=グリエについての詳細な情報があります。
http://d.hatena.ne.jp/Ume3/20080218

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