『ダークナイト』と「悪」、そして決断


 映画はけっこう観ることができている。なのに、なかなか感想を書くことができない。『幻影師アイゼンハイム』か『セックス・アンド・ザ・シティ』か『落下の王国』をうまく語りたいが、その余裕がない。が、せめて、言葉足らずであっても、『ダークナイト』については書かなければ。

 前に、伊藤計劃さんのブログで『ダークナイト』の感想が出ていたが、ここを読んで、いつになく熱い伊藤さんの表現にいたく感銘を受けたのだった。その感興を下敷きにして少し。


●観念の「悪」と、形象としての「悪」


 「悪」とはいったい何だ?


 時代精神ツァイトガイスト)を背負った悪役、というのは、わりかしよく見る。つまりグッドウィルの社長ですよ。でも、伊藤さんが言っている世界精神(ヴェルトガイスト)を背負った悪役というのは、たぶんまっとうなリアリズムでは表現できないのではないか。

 スターリンもブッシュもビン・ラディンも、さらにはポル・ポトでも、哲学がいまひとつなので、悪役としては全然魅力的ではないのだ。つまり(理屈で言えば)本当に糾弾されるべきは彼らを持ち上げた時代(時代精神)や政治的な状況そのものであり(もちろん、純粋な時代精神など、取り出すことができないが)、本質的には彼らよりも『地獄の黙示録』のカーツ大佐の方が、数段優れているのは間違いない、ということになる。
 もちろん、スターリンによってシベリアへ閉じ込められた作家シャラーモフが書いた収容所小説『極北 コルイマ物語』を読むと、スターリンは究極の「悪」であるように思える。それは間違いない。絶対的な「悪」である。
 しかし、少し角度を変えてしまうと、スターリンは同時に、すごくちっぽけにも見えてしまう。このちっぽけさが、すなわちどんなに単純な人間でも多面性を抱えざるを得ない、近代の、ひいては人間の限界ではないかと僕は思う。

極北 コルィマ物語

極北 コルィマ物語

 伊藤さんも例に出しているけれども、『ダークナイト』の系譜に先立つ『バットマン・キリングジョーク』や『アーカムアサイレム』を参照すると、ジョーカーの悪さは抜きん出ている。それはすなわち、「悪」という茫漠たる観念が、具現化されてしまうからだ。その意味で、例えばラヴクラフトの小説に出てくるグレート・オールド・ワンは、「悪」ではない。あれは、あくまで人間とはまるで別次元にいる異形にほかならないからだ。どちらかと言えば、トールキンの『指輪物語』で(しかも原著ではなく瀬田訳で)語られるサウロンの方が、まだ「悪」の恐ろしさを、否定神学的にであれ表現しているように思えてならない。  観念そのものの「悪」を追究したのは、おそらく日本の近代文学というジャンルではないかと思う。だが、戦後の近代文学を見直してみると、野間宏にも大江健三郎にも武田泰淳にも「悪」は出てくるが、それはあくまで時代の表象、観念そのものの産物で、姿は見えない。米兵が「悪」で、転向した仲間が「悪」でも、「悪」でありながら、あくまで一面的な「悪」でしかない。これは、大江自身も認めていることで、町田康との対談で、「自分の小説には、(不完全な人間は登場するが)悪は出てこない*1」という旨のことを言っている。
 これは畢竟、日本と西洋における「悪」というものを、主体的に選択するか、それとも自然の一部として(天災のように受け入れるか)という違いに依拠しているのではないか。日本の近代文学の延長線上で考えると、笙野頼子のおんたこ三部作のラスト『だいにっほん ろりりべしんでけ録』がやや残念なのは、やはり「悪」の最後があれでは拍子抜けだからだろう。


 しかしそれでも、海外の近代文学でも事態は変わらないところがある。ドストエフスキーの『悪霊』のスタヴローギンも、トーマス・マンの『魔の山』のナフタも、「悪」そのもの、というにはどことなく物足りない。結局のところ、彼らは「悪」を背負いきれず、スタヴローギンは石鹸を塗った縄で首をくくり、ナフタは拳銃自殺をして果ててしまうわけであるから。ジョルジュ・バタイユの『文学と悪』を読んでも、あんまり悪い気はしない。むしろ微笑ましい。 となると、これはいわゆる近代文学的な表象の限界なのかもしれない。もっと角度を変える必要があるだろう。
 「悪」の概念は、考察され直す必要があるのかもしれない。 思うに、「悪」は両義的なものにほかならないのだから。
 「悪」はチンケであることが前提なのだろうが、それ以上にまったき「悪」なるものも存在するわけで、そのあたりの広さ、畏ろしさ、というものはどう考えるかという話になる。そして、 「悪」は原理的に共有不可能なのではないかと思うのだ。


 伊藤さんはアメリカン・コミックを例に出していたけれども、たぶんアメコミと並ぶくらい、形象としての「悪」を考えてきたジャンルは、おそらくRPGではないか。
 実際、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の『不浄なる暗黒の書』や『ウォーハンマーRPG』の『堕落の書』はかなりいい線行っていると思うし、未訳だが“World of Darkness”の第二版の末期のサプリメントGehenna”なんてすごい。

堕落の書:トーム・オヴ・コラプション (ウォーハンマーRPGサプリメント)

堕落の書:トーム・オヴ・コラプション (ウォーハンマーRPGサプリメント)


 世界精神型の「悪」の魅力とは、つまり「悪」という形に表象される観念の形の問題なのだと思う。そこをどれだけ凝集するか。ひいてはそのことで、非‐情動的、かつ「悪」を通してしか語れない高みを提示するか、という次元に繋がるのではないか。
 実際、神話を読んでいると、突然世界精神型の「悪」が発動する瞬間があって、驚かされることが多々ある(神話は物語性、そして観念の形象の原型であるので、これは自家撞着なのだが)。
 僕の知る中だと、最も悪い奴の筆頭は、たぶん佐藤亜紀の『1809』に出てくるウストリツキ公爵である。彼は文字通り、西洋近代のレジームを出発点からぶっ壊そうとしているからだ。その先に待つのは、絶対的な自由としての、廃墟と化した未来である。
1809―ナポレオン暗殺 (文春文庫)

1809―ナポレオン暗殺 (文春文庫)


●「決断」と『ダークナイト


 「悪」についてこのような理解であるので、当然ながら『ダークナイト』についても、あまり上手に語れない。『ダークナイト』は、ハイデガー/シュミット式の「決断」が主題になっている映画だが、 コイントスが何回も繰り返されることで強調しようとした 「確率」につきまとう重みが、繰り返されてかえって揺らぐ。 そして「確率」さえもがある種の病理の元へと沈潜していく。


 これは極めて不吉なことではないだろうか。僕たちは「悪」すら、主体的に選択することができなくなっているのだ。特定のメガホンをもったイデオローグに流されているだけ。
 実際、いま、決断、決断、と世のなかは言い過ぎているようだが、それは実は何も決断していないことの裏返しではないか。
 「我々は決断していた、だがいったい何を?」と、ハイデガーナチスに転向した際、その講義を聴いた人間は、あとで述壊したという。


 普通、人質の起爆スイッチは両方押されて、両方とも死亡、てな話になるだろう。でもそうは進まない。この映画の気持ち悪いところは、倫理でこうしていると言っているわけではないことだろう。単なる惰性。あるいは倫理と惰性との差異が消滅している。だからあんな終わり方になる。「万人の万人に対する闘争」は、みんな怖くて継続できない、と言っているわけ。気持ち悪い。そして、そこにしかおそらく「救い」を見出すことはできていない。惰性を救済に置き換え、それを呼吸することでしか、「救い」の余地はないと思われている。なんとも強烈な、そして悲壮感溢れる皮肉である。


 だからジョーカーは光る、光る。
 去勢された連中か、後付けでイデオロギーを注入された者しか出てこないこの映画で、ただ一人哲学があるのは彼なのだから。
 パレスチナのテロリスト作家ガッサン・カナファーニの『太陽の男たち』という小説がある。クウェートに脱出しようと、トラックのトランクに潜り込んだ男たちは、検問に見つかりたくないという思いから、灼熱のなか、息絶える。そのラストに、「なぜ声を出さなかったのだ!」と悲痛な叫びが轟くが、ジョーカーの怒りはこれに似ている。


 いやはや、極めて不吉。ヒース・レジャーも亡くなるわけだ。たぶん「決断」をNGワードに指定したうえで、書架からおもむろにシュミットの『政治神学』を取り出して、「決断」を黒く塗りつぶす必要があるだろう。
 もしくは、安易に決断を求めることなく、例えばカントを通して、そのことを考えるしかないかもしれない。

政治神学

政治神学

 思い返せば、9・11のテロ事件が起こった頃、僕はまだ大学の2年生だった。事件の翌日は忘れもしない、月曜1限の美術史。美術史の教授は年齢不詳の謎めいた美人だったが、憔悴しきった顔をして戻ってきて、テロの話をした。


 その教授はたまたまニューヨークに学会に行っていて、帰りの便を確保しようとしたとき、テロに出くわした、と。地方都市ではなく、ニューヨークの混乱をその眼で(しかも美術史家のまなざしで)見てしまったようなのだ。
 だが、それを聞く僕は、何もリアルさを感じることができなかった。つまり、起きた事件のスケールを想像することができなかったのだ。しかし、無縁だと思っていたのは単に僕が鈍かっただけで、実際は無数の隠れた狂気が日常に埋没していることに、気が付かなかっただけではないかとも思う。
 9・11直後のアメリカでは、田舎町でも、事件のあとは常にいつ爆破が起こってもおかしくない、という状況に怯えざるをえなかったいう。だから、たぶん僕が現地で白人だったら、保身のために、有色人種を相手にしないということを、「惰性」と変わらない「倫理」に基づく「救い」として「決断」せざるをえなかったのではないか。


 『ホテル・ルワンダ』という、94年のルワンダの大虐殺を扱った映画がある。その原作、フィリップ・ゴーレイヴィッチの『ジェノサイドの丘』を読むと、集団的なヒステリーは、普段は沈潜しているが、些細なきっかけとして突如噴出するということがわかる。それはある意味「やられる前にやれ」な、保身と言う感覚にも近いものがあるのではないかとも思うのだ。 

ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈上〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

ジェノサイドの丘〈下〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

 擬似的に単一民族国家を装っている日本では、そんなことがないと見えるかもしれないが、また一方で、いつまた松本サリン事件みたいなものが起きないとも限らない。いや、実際に酷い事件は多々、起こっている。僕も秋葉原事件に巻き込まれかけた。そしてそれは特異な例ではない。となると、恐ろしいことに、日本人も今や、アメリカで受容されているのとかなり近い眼差しで『ダークナイト』を観てしまっているのではないかと、考えざるをえないのだ。

*1:でもまた一方で、必ずしもそうとも思えない。『万延元年のフットボール』に出てくる「スーパー・マーケットの天皇」など、うまい「悪」ではないか。