アンソニー・レイノルズ『渾沌のエンパイア』を読む。

渾沌のエンパイア (ウォーハンマーノベル)

渾沌のエンパイア (ウォーハンマーノベル)

 げげげ、おもしれーじゃん。
 いや、WHの翻訳チームにいるから贔屓目、ってわけじゃないけど。


 あえてこういう書き方をするが……。
 ヒロイックファンタジーというものは、選ばれた者にしか書けないジャンルと言ってよいと思う。
 それはファンタジーの「核」になるものを掴み取っていなければ書けない部分、構造をとってチャート化して終わり、じゃない部分。それがなければないからだ。
 血と硝煙の彼方に見える土俗と幻想。それがないファンタジーは贋物の逃避文学だ。


 しかし『渾沌のエンパイア』の幻想世界は逃避とは縁遠い。
 現に、作中に登場する魔狩人と村人との相克。エルフとドワーフの桎梏。
 異種族がわかりあえてハッピー、世界が百人の村だったら……。なんてことにはならない。
 種族と種族の間では、血で血を争う抗争が繰り広げられてきた。そうした現実から目を逸らしていないのだ。


 細部の書き込みが濃くて濃くて、もう堪能したのだった。
 何の不満もない。


 ちなみにこういう小説を読むための批評的な軸は、ほとんど存在しない。
 理論的な強度が高い本としては、『千の顔をもつ英雄』くらいだろうか。
 この本も、データベース化のさきがけと捉えては読み間違ってしまう。

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

 いやしかし、毎度ながら嘆息してしまう。
 RPG原作ファンタジーの社会的地位はひどいものだからだ。
 例えばSFマガジンのファンタジー欄のレビューでは昔から常に多くの場合総スルーである。
 しかしながら、RPG原作ファンタジーの持つ充実した背景世界という要素は、もっと注目されていい。
 レイノルズのこの小説にしてもそうだが、練り込まれ鍛えられた背景世界をもつ作品群であるにもかかわらず、なにゆえ 「幻想性が薄い」と小馬鹿にされなければならないのか。スルーなので直接言及はないのだが、そう読まれているのが垣間見えるので腹立たしい。
 血と硝煙の果てではないと幻想なぞ生まれないだろうに。
 ダンセイニやトールキンだって、戦争から目をそらしてはいないよ。
 うーん、それなのになぜヒロイックファンジーは評価されないのか。世のなかは理解できないことばかりだ。


 現代文学の多くでは、テクストの運動性はなかったことにされる。
 佐藤亜紀の『天使』を読んでいちばん驚いたのは 「おおっ、現代文学で戦闘をしてよかったんだ!」ということだった。


 ヒロイックファンタジーに価値があるとしたら、運動性と神話との繋がりの恢復だろう。
 残念ながらいまは1960年代ではないので、「ガンダルフを大統領に!」とデモ行進をしたりして、ヒロイックファンタジー時代精神を仮託することはできない。
 だが、逆を言えば、時代精神のくびきからヒロイックファンタジーは逃れることに成功したわけだ。


 『渾沌のエンパイア』は、剣の代わりに槌を振り回す、ジャンヌ・ダルクへのオマージュなんていう読み方もできる。
 しかしながらロバート・E・ハワードの時代から連綿と続く、ヒロイックファンタジーというジャンルの魂がテクストに込めた躍動感。まずはそれを感じるべきだ。