セルバンテスは僕にとってほとんど神に近い。いわばカルチャー・ヒーローだ。
すべてをここから学んだし、現在も学んでいる。スペイン語はできないのですが(汗)、代わりに一晩中セルバンテスの話はできますよ。
今は、あえてラテンアメリカ文学の流れでセルバンテスを理解するようにしています。
ちょっと前に、そのセルバンテスの遺作『ペルシーレス』の訳者荻内氏が出した新訳『ドン・キホーテ』を作業間のオアシスにとつまんでみたのでした。
- 作者: セルバンテス,荻内勝之
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/10/18
- メディア: 単行本
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ただ、ウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』で、「恐れ入谷の鬼子母神」とか言われても、ムカつかないどころか大喜びしていたわたくし。それは、作品の本質をついたユーモアだったからにほかなりません。
この『ドン・キホーテ』もはじめは違和感がありました。でも、読めば読むほど味が出て、なかなかよいですよ。
この荻内訳を講談語りで読み上げているサイトがあると、友人に教えてもらいました。
放送大学での朗読サンプル。リンク先のトラック2以降がそうです。ビスカヤ人のあたりとか素晴らしい。
http://www.campus.u-air.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/work01.html
でも、荻内氏が、なぜこのような方法で「語り」にこだわるのか謎でした*1。
その答えがわかったのは、荻内勝之『ドン・キホーテの食卓』を読んでからです。ここでは「食べること」と「話すこと」が着目されており、16世紀の時代状況と現代が何が違っていて何が共通しているのかを、かなり興味深いアプローチで繋げてくれます。
つまり、荻内氏が『ドン・キホーテ』の翻訳で講談調を採用したことには意味があった。語りのダイナミズムを現代において取り戻そうという試みであったように思えるのです*2。
もちろん、現代では話言葉を手軽に動画などで公開することはできますが、そういうのとはたぶん違う。セルバンテスの「ものすごく登場人物がよくしゃべる」テクストを通じて、凝集された、話言葉の原石みたいな力を提示しようとしたのではないかと感じました。
核たるものを失った現代文学への、ひとつのオルタナティヴの提示。それが荻内氏の仕事なのではないか。
拡散するエクリチュール内に、再度パロールの躍動感を取り入れること。それはRPGにも通じる*3。このことの意義は、もっと注目されてよいと思います。
- 作者: 荻内勝之
- 出版社/メーカー: 新潮社
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