新たな理論の誕生を言祝ぐ


 拙リプレイをきっかけとして高橋氏の手で書き上げられた考察は、今回のウェブ掲載を契機としてか、再度、より理論的な強度を上げていく方向でまとめ直されました。
 私のブログをご覧になっている方には、物語を理論的に捉えたいと思っている方が少なくないと存じ上げますが、そのような方にはとても役に立つはずです。難しいと思われる方もいるかもしれませんが、現場的な経験から立ち上がってきた考察であるがゆえ、じっくりお読みになれば、きっと腑に落ちることと思います。
 http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395

 
 そのエントリを初めて読んだ際の感想を、ここに貼っておきます。いわば私からの応答で、きっとお役に立てていただける方がいるものと思います。

 今回のエントリは実に刺激的で、RPGを知らない人にこの考え方を呑みこんでもらい、あとは随時個別のシステムに応用していけばわかりやすいかなと思います。その意味で骨格たりうる、開かれた良エントリを書いていただき、感謝しています。こういう優れた論考がアウトプットされるなにがしかのきっかけを作ることができたのだとしたら、リプレイをしたためた意味もあるというものです。ありがとうございます。
 情報理論の述語に親しみがない向きにも、定義付けがしっかりしているので、パラフレーズして解説するが容易で、応用しやすいところもよいですね。


 本エントリを読んで私が思い出したのは、会話型RPGの例で言うと『トラベラー』ですね。あれはユーザーが動く世界設定を変数を軸にした量的情報として設定し、かつその部分を質的情報として腑分けしていくシステムだと見ることができるということが、この論考を読んでいてわかりました(もちろん、すでに質的情報として提供されている情報も数多いのですが、例え質的情報に重きを置いている『メガトラベラー』でさえ、オフィシャル・シナリオ集ではいずれも量的情報に対する批評的な気配りを忘れていません。例えば『ハードタイムズ』というシナリオ集では、銀河皇帝暗殺後の混乱を表現するために、すでに設定された世界のテック・レベルがランダムで下がるんです)。


 だとすれば、ユーザー間で量的情報と質的情報の差異を意識することで、より洗練されたプレイングに応用できる(それまでブラックボックスとなっていた変換の仕組みがより明瞭になる)のではないかと思います。
 これまでRPGにおける「プレイング」を語るうえでは、平易であろうとするあまり精神論に陥りがちで、そのぶん敷居が上がってしまうことがままあったと思うのですが、何気なく遊んでいるスタイル(の構造)をこうして言語化してもらえると、肩肘張ることなく何をもって上手な「プレイング」が成り立ちうるのかという方向性が見えてくるのでよいですね。


 ここで「成長」について言及しうるとするならば、量的情報を主軸とした世界の中では、変数に対してPCという世界の中での主体がどう介入していくかという拾い上げ方ができるかな、と。つまり、変数に対して影響を与える因子としてPCを理解すれば、その度合いを考えることができるのではないか。PCが成長することは、データ的に強力になるのであれ、社会的に成功する(『トラベラー』ならば、例えばお金持ちになる)のであれ、量的情報としての変数に与える影響力がより大きくなるということを意味しているのではないかと思います。
 『D&D第4版』はこの部分にも意識的なシステムで、具体的には英雄級−伝説級−神話級といった「級」のスケール・アップによって、量的情報への介入の度合いの変容をうまく表現することに成功しているように思えます。幸いながら、『シルヴァー・クロークス戦記 巨人族の逆襲』という伝説級のシナリオが日本語で紹介されました。このシナリオ集は、「級」のスケールを表現するという意味においては、昨今紹介された会話型RPGのシナリオ集の中では図抜けていますので、『モンスター・マニュアル』を買う前にでも見てみてほしい、とすら思ってます(笑)


 ここで、物語論の伝統に引き戻して考えれば、これは一人称、三人称という人称の変容と、それによって語られる世界観の質の変容、という部分に接続することができるでしょう。
 人称の問題も込み入っていて厄介ではありますし、人称に着目すると問題は情報理論から表象理論の方へ近付いていきます(例えば一六世紀を舞台として「一人称」を説得力のあるものにするのは困難だという考え方もできます)。そして問題なのは、『D&D』でも、伝説級や神話級に比べて、英雄級のセッションは別につまらないものではないということ。『D&D』のユーザーには昔からスウィート・スポットという考え方がありまして、これは『D&D』をいちばん楽しめるレベル帯、言うならばシステムの性能を最大限に引き出すことのできるレベル帯のことを意味するユーザー側から生み出されたタームです。もちろん人によって若干の異同はありますが、例えば『クラシックD&D』の場合は、エキスパートセット(「青箱」)で表現されるレベル帯が、スウィート・スポットとみなされてきました。『D&D第3.5版』の場合も、5〜8レベルくらいがだいたいスウィート・スポットと見なされているようです。でも『D&D第4版』の場合、いまだ確固たるスウィート・スポットはないんですね。試行錯誤の段階と言ってもよいかもしれませんが、これは「級」ごとのゲーム・スケールの変容を明確化したことで、かえってスウィート・スポットに限定されない、ビッグゲームならではの魅力を引き出し得たのではないかと考えています。


 演技についても面白い手がかりがありますね。ライブRPGの例が出てきましたが、あのようなスタイルで「没入」を考えるうえで難しいのが、おそらく確たるロール・モデルがないことです。
 演劇の場合、「没入」を判定する基準は、情報理論とは質が異なるかもしれませんが、或る程度判定はできる。それは古典的な演劇の場合はロール・モデルがきちんと設定されているからです。ある人物がハムレットらしいかということは、ハムレットというロール・モデルが、深遠でこそあれ明確である以上、まったく異なるロール・モデルは排除することができるわけです。ハムレットと言って、ドン・キホーテを演じることは「没入」していないことになるのでしょう。しかしRPGの場合は「没入」を客観的に判断しうる審級が欠落している。このためにどこまでも「没入」は主観化せざるをえないのではないかと考えています。たとえドン・キホーテでも、本人がハムレットといったらハムレットになってしまう。おまけに、自分で作成するキャラクターにロール・モデルがあるにしろ、それは神話的な祖型でしかない場合が多い。「ジークフリートを演じる」のではなく、「ジークフリートの〈ような〉英雄を創造し、演じる」という、神話の原質そのものを再現することが多くなってしまうのではないかと思います。
 神秘化に近付く以前に、こういう段階が存在するのが厄介なのかもしれません。翻って情報理論を軸に考えるのであれば、ライブRPGよりも、平田オリザが『演劇入門』で行くような対話劇の方向から、情報理論に接続させていくことができるのではないかと思います。『演劇入門』の「対話」概念は、ここで語られていた質的情報を主体が解釈したさまを、台詞のうちで変換させ、別の演技者にとっての量的情報として提示するといった形にできるのではないかと思っているます。その方がおそらくは本エントリであるような「企画会議」のようなロールプレイに近い部分があるのかもしれません。私は新版『ローズ・トゥ・ロード』を非常に高く評価していますが、その理由は対話劇としての「質的」→「量的」→「質的」のサイクルを明確化することで、無名の跪拝の対象となりがちなロールプレイにおける「対話」を、さらに踏み込んだものにできるだけの突破口を切り開いているという部分にあるのです。

 高橋さんの応答を経たうえでの、私の所感を(コメントに書いたものを含め)まとめ直した感想を付記するのであれば、いずれにせよ、自分が評価するルール・メカニズム、そして関わった作品からこうした優れた理論が生まれてくるのは、喜ばしいことだと思います。
 平易に書かれたルールブックでも、ゲームマスターがその内容を呑みこんで自分なりに整理してプレイヤーに伝えなければならないように、いったん現場では自分の言葉に置き換える必要があり、その際に目をつけるべきポイントにもなるだろうから、そうした際に、現場でも役に立つ発想でしょう。
 先のコメントでは情報理論を受け付けない人と書きましたが、それ以外でもこうしたごく基礎的な設計図を他の分野を専門にしている人に伝えなければならないケースは多々あります。それは単に遊んで楽しい、遊びを楽しくするだけの理論ではなく、遊びの根幹のエッセンスを伝える一つの手段としての理論ですね。
 私は物語表現の一分野としてのRPGには大いに可能性があると考えますが、それを物語論の人へ具体的な言葉で伝えられないのでは問題ですし、実際に苦労しています。「やってみればわかるよ」、「とにかく楽しいから」だけでは、なかなか通用しない。その構造を伝えられないので。私も「楽しさ」を強調しますが、ではいったい、何がその「楽しさ」を生み出すのかを放棄しては駄目でしょう。
 共感によって生まれる認知的な協和/不協和以外にも、既存のジャンルを理論的に越境しうる観点は常に必要であり、それがなければ創作者はバックボーンを失います。
 私はSF評論賞優秀賞というのをいただきましたが、評論賞というのは、むしろ作家側の要請によって生まれたものなのです。
 創作と論考というものは、常に車の両輪のようにバランスを取ることが、優れた作品を生み出す鍵となる。あるいは批評自体が一個の作品として成立することも、近代の歴史を遡るとたくさん事例はあるわけです。RPGにおいてもそれは同じでしょうし、現に私は優れた理論の書き手から刺激を受けています(それが学術的に厳密な理論の形を取らず、エッセイやおぼえがきに近いものであっても、私にとって刺激となる意味では同じです。例えば鷲巣繁男のエッセーのように、)。
 ついでに自作について言いますと、『ガンドッグゼロ』のシナリオで、南オセチア共和国を舞台にしたシナリオを書いたのですが、やはりこれも「量的情報」と「質的情報」を問題意識に組み入れずにはおれませんでした。
 そのうえで、ロシア・チェチェングルジア間での紛争という、それこそ『虐殺器官』ばりに表象を拒否する現実をどうシナリオ的に構造化するのか、と言う問題も考えさせられましたね。
 このあたりの仕事はとあるプロのミステリ作家の方から、その問題意識に共鳴するといった趣旨の丁寧なお手紙をいただいたこともあるくらいなので、やはりジャンルは越境できるのだ、と希望を感じた次第です。
 その方の刺激を受けて、シナリオ「ミッション:ルインズ・アンド・イデオロギー」は生まれました。これは、南オセチアの情勢をゲーム化すべく、自分なりに真っ向から挑んだものでした。

 高橋さんからは、

 別件で進めているindex-symbol cycleの話(引用者注:パース記号論を援用した新しいRPGを論じるためのフレーム)もまた、実は今回の量的/質的なものの話と緩やかに関連すると考えています。今回それを用いなかったのは、index-symbolが、「物語を認知的に理解するモデル」としては有用だけれど、いざゲーム論として話そうとするとけっこうめんどくさい突飛な用語になるかなと思ったためです。量的/質的(あるいは定量的/定性的)ならば、社会科学一般でも普通に共有されている区分ですし、極端に専門用語というわけでもないです。会話型RPGには確かに適用されてこなかった言葉ですけれど、パラフレーズした内容であれば誰もが言ってきたことですし、僕としては「ベタ文をさくっと引用する時のタグみたいなもの」くらいの感覚で定義を行いました。


『アゲインスト・ジェノサイド』の問題意識がミステリ作家など別のnarratorの方へも伝わったというのは、とても興味深い出来事だと感じます。会話型 RPGの面白さは、いったん数値に抽象化したはずの変数が、挙動を繰り返す中で「成長」や「英雄的行為」や「挫折」といった、自然言語に翻訳しうる何らかの手応えとして感じられてくるところにあると思います。それはもうすでに「ベタに語られた表現」では決して表現できない凄みではありますが、それでもそうした凄みの何割かでも、「こういう面白さがあるんだよ」とフラットに伝えられる語彙をつくっていくのが、「会話型RPGについて批評する」という営みではないかと思う次第です。

 というご返答をいただきました。
 いずれにせよ、文学の定義にせよ、SFの定義にせよ、ミステリの定義にせよ、定義問題というのは反感を生みやすいものです。しかしながらそうした反感を生み出すということは、本質に近づいている(日本におけるSF評論を成立させたのは論争史です)部分がある。「浸透と拡散」があれば、サイクルとして「抽出と凝固」も必要になる。それゆえRPGとは何か、という命題は、本質的に困難ながらも避けがたい問題として立ち上がってきます。
 今回高橋さんが提示してくれた理論は、そうした茨の道を分け入って何か立派な宝物を見つけ出すことができるのではないか、そうした手応えを感じさせられるものでした。
 願わくば、RPGと物語表現の未来をいっそう豊かになるような、開かれた言説が今後とも生み出されんことを。

シルヴァー・クロークス戦記 巨人族の逆襲 (ダンジョンズ&ドラゴンズ第4版)

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