「アホフェミ」について(笙野頼子さんの見解)
2018年10月18日、私はツィッターにて、以下のようなコメントをしました(コメントツリー形式になっていますので、クリックすればツリーの全体が読めます)。言及されるお店の(大学地下部室のような)アジール性を評価しつつ、それを他人に(とりわけ「女性」を「アホフェミ」などとラベリングして)振りかざす武器とするべきではない、という主張です。
新宿ベルクの反権威的なスタンスは応援してきたし、以前店長がツィートしていた「万引き犯」と思われるアカウントは、実はこちらにも絡んできたことがある。その上で、今回の騒動も最初から見ているが、ベルクを擁護はできない。乗っかって女性叩きをする人たちも自粛すべき。https://t.co/vIW7IcDWxW
— 岡和田晃_新刊「ナイトランド・クォータリー」Vol.18 (@orionaveugle) October 18, 2018
こちらのツィート、および、それに関連したやりとりを見た作家の笙野頼子さんから、ベルクを擁護する人たちと批判する人たちに関して、「本来は和解できる問題だと思います」、「和解してほしいと思います」としたうえで、不意に湧いてきた「アホフェミ」という罵倒表現について、示唆に富んだコメントをメールにて頂戴しました。
というのも、笙野頼子さんの小説に出てくる「イカフェミ」という造語を「捕獲」する形で、「アホフェミ」が正当化されようとしたので、それについての「正しい解釈を述べたいのです」ということでした。
私も、とりわけこの点に関しては、ジェンダーについての本質を突くものであり、大きく蒙を啓かれた(この問題について発言しようと思うに至った違和感が解消された)と考えましたので、以下、笙野頼子さんご本人の許諾を得たうえで、当該箇所をご紹介します。
なお、文中で言及される『日本のフェミニズム』(河出書房新社)は、次の書籍です。全体的に良書で、私も「図書新聞」の2018年1月20日号の連載「〈世界内戦〉下の文芸時評」で論じたことがあります。
(岡和田晃・文芸評論家)
岡和田晃さま
アホフェミってフェミの属性と関係ない嘲笑侮辱の言葉
イカフェミがあるからアホフェミといってもいいといった男のツイッタラーがいたのでイカフェミの正しい意味をまず書きます。イカフェミは拙作に登場する偽のフェミニズム、イカサマのイカ、偽という意味、それは原初的な女性の戦い、怒り、悲しみを乗っ取ってその本質や大切な部分を、無効化してしまう捕獲装置である。マスコミや研究の腐敗によって、本質を欠いたまま形骸化、巨大化したものである。これをすでにフェミではないとして小説の中で、私は十年以上前から批判している。同時期にロリフェミ、途中からはヤリフェミとも表現している。
つまり私がもともとフェミという言葉をあまり使わず、ウーマンリブとか、女性解放という言葉を多用するのは、前世紀から一部のマスフェミが権力にこび、少数派にすぎぬのに代表としてふるまい、性表現万能的な立場だけを表面化していることを間違いだと思うから。その上に冷笑的で無神経であるケースがあるためそれを作中で批判している。『日本のフェミニズム』のインタビューを読めばわかる。
前世紀既に、あるマスフェミ兼アカフェミがフェミ全部の代表化している風潮を、私は発言で批判している。
ウーマンリブの時代に十代であった私は最初の怒りを大切にしたかった。昔はリブと言っていた。
なので世間に流通している「大きいフェミニズム」を、その立場、方向性、真贋、過激さの程度、等から、作中で戯画化して批判したのである。
「アホフェミ」などという人を見下した言いっぱなしの言葉とは違う。形容に関して、否定でも肯定でも、ラディフェミ、リベフェミ、ぬるフェミ、ガチフェミという言い方はあって良いと思う。程度や方向性をあらわすから。
もしそのような語が立場の違う相手との罵り合いに使われるとしても、それは派閥や個人の議論のための言葉である。しかしアホフェミ、ブスフェミはない。
フェミの立場、方向性、真贋とアホやブスという評価は関係ない。上から決めつけて威張っているだけだ。批判になっていない。批評性がない。アホフェミという言葉はむしろバカ女とかだめ母、毒嫁という言葉と同じものだ。
2018.10.29付記:私はこの記事を、クリティカルなポイントに絞り、かつ「煽らない形」で書いております。中傷の連鎖を断ち切り、またその渦中に笙野頼子さんを巻き込まないためです。コメントを参照する方は、この点を念頭に置いてください。(岡和田晃)