『R・P・G』(国際通信社)4号が予約開始&「はじめに」


 宣伝失礼!
 国際通信社のアナログゲームショップa-gameにて、季刊『R・P・G』4号の予約が開始されているようです。

 書影はこちらから。
 毎度ながら米田仁士先生の表紙が美しい。

R・P・G vol.4―本格派アナログゲーム情報誌

R・P・G vol.4―本格派アナログゲーム情報誌

 今号の特集は、なんと〈地図〉。
 私は、特集テーマに沿って、「〈地図〉を携え、〈地図〉の彼方へ」という8ページの記事を書いております。


 「相変わらず渋いテーマ」なんて言わないで下さいな。
 〈地図〉って、RPGのシステムや運用スタイルを、如実に表していると思うんですよ。


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 RPGをはじめたばかりのときって、そのあまりの自由度の高さに、誰もが驚くこと思います。
 実際、もともと私は、RPGとはプレイヤー同志が言葉を交わすことによってイメージの連鎖の広がりを楽しむゲーム、だと考えていました。
 もちろん、ストーリーラインは大事だけれども、ストーリーを成り立たせるような想像力の磁場のようなものが存在し、その磁場を共有することで、さらなる高みを目指そうとする(目指すことができる)メディアだと思ったのですね。

 もちろん、いくら架空世界であっても、いや架空世界であるがゆえに、リアリティは必要です。でないと、単なる言葉遊びになってしまいますから。
 そうしたリアリティを詰めていくため、ルールや世界設定は存在するのですが、ルールや世界設定が表しているものを、最も如実に表現しているのが〈地図〉なのではないかと思います(もうひとつ加えるとしたら、キャラクターシートかな)。


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 一方で、RPGの楽しさのひとつに、やたらと選択肢の多いシミュレーションゲームのような「行動の自由」という要素もあります。


 ルールによって、世界観を解釈するための個別具体的な規定を設けることで、「思いもよらない選択肢」が見えてくること。その選択肢をうまく使うことで、他のエンターテインメントとは違ったゲームならではの醍醐味、つまりは双方向性を堪能することが可能になるわけです。


 が、こうした双方向性を具体的に、根底の部分から規定するのもまた〈地図〉なのではないかな、と私は思うのです。


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 RPGの根底にあるこうした二項対立が、細かな軌道修正をしつつ、新たな評価軸を貪欲に取り入れながらどのような変遷を遂げてきたのかということを、拙記事では〈地図〉を媒介に、対話形式で追いかけていきます。
 もちろん、抽象論だけではなく、RPGのシステムごとに、どうしたら効果的な〈地図〉の運用ができるかということもきちんと書いてあります。


 国内のRPG史をある程度ふまえたうえで、多少なりとも意義のある整理ができたのではないか、とは言いすぎでしょうが、この記事を書くことで、自分のなかの見通しがよりクリアーになったことは確かです。


 文章からは晦渋なところを可能な限り廃し、マイルドなものとするよう気を遣って書いているのでご安心下さい。

 以下、せっかくなので、(分量の関係上)本文に盛り込むことができなかった、「はじめに」を添えておきました(もちろん、記事自体は「はじめに」がなくてもお楽しみいただけます)。前口上の常として大袈裟ですが、そこのところはご愛嬌を。


●はじめに:「物語」VS「状況のリアリティ」?


 もともとRPGとは、ウォー・シミュレーションゲームから分化したゲームだ、というのが定説である。それゆえ、「ゲームボード」としての地図版が、必要不可欠なものだった。実際、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』など、古くから連綿と続いているRPGは、セッションにおける地図の重要性が極めて高い。だが一方で、RPGがホビーとして成熟し、遊び方が多様化してくると、地図への接し方も一様でなくなってきたというのも事実である。

 とあるベテラン・ゲームマスターは、「地図が描けたらシナリオは8割方、完成したようなものだ」というのが口癖だ。それは、彼の用意するシナリオが単線的な「ストーリー」よりも、PCたちが動き回る「フィールド」を重視している、ということを意味している。


 しかし、別のベテラン・ゲームマスターは、セッションの序盤にPCたちの置かれている状況(例えば、「君たちはアメリカはマサチューセッツ州アーカムの街にいる」)ということを示すために地図を使うだけで、あとは一切地図を用いず、場面転換とキャラクター同士の会話のみで話を進めていく、というスタイルを取っている。これは、状況に対するシミュレーション性よりも、会話がもたらす自由度の高さと、それによって形作られるストーリー性を重視しているということだろう。そもそも、RPGのルーツには、それこそ有史以来連綿と続く、口承芸能や物語文学としての側面もあるのだ。


 どちらもRPGに対する姿勢としては、正しいものがある。なぜならば、RPGとは、シミュレーション性とストーリー性という相反する要素を併せ持つゲームだからだ。


 ウォー・シミュレーションゲームからRPGが分化する過程において、RPGは「ゲームマスター」という存在を、単なる審判役から、セッションの司会進行役に格上げさせた。つまり、シミュレーションゲームの目的であった「歴史の再現」が、RPGの本義である「物語の創造」へと変わっていくにつれ、ゲームマスターは「語り部」の役割を帯びるに至ったのである。


 もともと、それこそ世界最古の叙事詩のひとつとされるホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』を読めばわかるが、「語り部」に求められる役割は、単に実証的な状況の再現ではなく、題材として取り上げられた状況を、いかに観客の「心に響く物語」として磨き上げるかということにほかならない。ゆえに、余分な情報は削ぎ落とされ、場合によっては物語の筋書きそのものすらが、観客の反応に合わせて自在に変化させられることになる(実際、『イリアス』をはじめとした古代の叙事詩が、ジェットコースター的に波乱万丈な展開が多いことは、「その方が客にウケる」と、詩人が脚色を加えたからだというのは方々に指摘のあるところだ)。


 ただ、古代の吟遊詩人とは異なり、現代のゲームマスターという役割の難しさは、こうした「語り部」ならではの自由度の高さが、「審判」役に求められる裁定の厳密さに、まるで相容れない場合が多いというところによる。


 実際、「語り部」としての役割を重んじるあまりに、はしゃぎすぎてしまうと、物語は奔放で支離滅裂、時にはGMのワガママを通しただけのものとなる。一方で「審判」の役にこだわりすぎると、物語は窮屈で出口がなく、非常に殺伐としたものになってしまう。


 けれども、「物語」と「状況のリアリティ」という相反する要素が同居しているからこそ、RPGは挑戦し甲斐があるというのもまた事実だ。それゆえに、成功したセッションは、他のジャンルのエンターテインメントでは替えが効かないような満足感・充実感を与えてくれる。


 そこで、本コラムにおいては、〈地図〉という具体的なアイテムを媒介に、RPGにおける「物語」と「状況のリアリティ」について、対話形式で考えを進めていく。といっても、もちろん単なる二項対立に落とすようなことはせず、個別具体的に考えていく。やや抽象的な問題だが、可能な限りマイルドに書いてあるので安心してほしい。あなたのセッションをより大局的な観点から見つめ直すためのよすがとして、活用していただければ幸いだ。


●登場人物


(……)


村上春樹RPG


(以下、雑誌本文に続く!)