ウィリアム・バトラー・イェイツ『薄明の中へ』


 詩について考えるのは難しい。私は、ある種の詩こそが、幻想性の、最たる高みを志向する形式であると思っている。しかし、詩境というものは、凡俗の身からは遠いところにあるのは間違いない。届きえぬ詩境へあえて背を向け、いかに散文的に方法を模索し、そのなかでこそ見える美を拾い出すこと。それが、私の個人的なテーマのひとつではある。だが、下手の横好きはいまだ根強く、ケルトについて考えていると、「最後のロマン派」ことイェイツの、特定の詩に耽溺していた経験があったことを思い出した。そのひとつが、『薄明の中へ』だ。


 『薄明の中へ』は、"The Celtic Twilight"と題して、National Observer誌の1893年7月29日号に掲載された。そして、同年発表された、イェイツ自身が見聞きしたケルトの伝説を収めた説話集"The Celtic Twilight"(邦題:『ケルトの薄明』ちくま文庫所収)の最終章に、"INTO THE TWILIGHT"という題名で収録された。
 作品集"The Celtic Twilight"に収録されている民話・伝説は、そのすべてが彼が生まれ育ったアイルランドに由来している。そして、その最後に収められている『薄明の中へ』は、作品集を総括するにふさわしく。彼自身のケルト観をもっとも端的に表現している詩篇ではないか。そう、私は考える。

"INTO THE TWILIGHT"


Out-worn heart, in a time of out-worn,
Come clear of the nets of wrong and right;
Laugh heart again in the gray twilight,
Sigh, heart, again in the dew of the morn.


Your mother Eire is always young,
Dew ever shining and twilight gray;
Though hope fall from you and love decay,
Burning in fires of a slanderous tongue.


Come, heart, where hill is heaped upon hill:
For there the mystical brotherhood
Of sun and moon and hollow and wood
And river and stream work out their will;


And God stands winding His lonely horn,
And time and the world ane ever in flight,
And love is less kind than the gray twilight,
And hope is less dear than the dew of the morn.


 まず注目すべきは、2行目の"Come clear of the nets of wrong and right"、6行目の"Dew ever shining and twilight gray",15行目の"And love is less kind than the gray twilight"に見られるような、「薄明」(twilight)の扱われ方であろう。「薄明」は善悪を超越したものであり、同時に露のようにいつまでも輝く。そして、それは愛よりもなお、優しいものなのである。


 このような考え方は、異教的な要素を積極的に作品のモチーフにとったロマン派の詩人の中でも異例であろう。キーツの『つれなき美女』の例を待つまでもなく、キリスト教が価値観の中枢に置かれていた社会において、「異教」的なものは、社会的・倫理的規範から外れていた。少なくとも、中心にはなり得なかった。


 ロマン派の詩人は「自然」というテーマを好んで扱う。しかし、彼らが「自然」に見出し、詩の題材としたものは、あくまでもキリスト教の延長線上にある「神性」であった。たとえ「異教」的なものが登場するにしても、それは本来の神性が形を変えたものか、さもなくば狂言廻しや誘惑者の姿をとっていた。それがスピノザ的な汎神論と結びつくのかどうかはここでは詳述を避けるが、とにかく彼らの無限の憧憬の対象は、多少角度を異にしたとしても、あくまでキリスト教的な価値基準を著しく離れるものではなかった。


 しかしながら、『薄明の中へ』で詩人が歌っているのは、そのような神性ではない。キリスト教的二元論ではくくることのできない、黒と白が交じり合った「灰色の」世界こそが、彼の求めて止まないものなのだ。そして、その世界は、詩人自身の言葉を借りれば、「神は佇んで寂しい角笛を吹」いており、「時とこの世がいつも飛び去っている」場所なのである。すなわち神は世界を治める全能者というよりも脇役的な立場にあるに過ぎず、神によって造られ、確固たる存在であったはずの時や世界そのものも、そこでは常に移ろい続けている。


 このような「異教的」世界観は、キリスト教的なそれとは相反するものではないにしろ、質を異にするものだということは疑いがない。そして、彼が求めていた世界は、まさしくそのような場所であった。齢を重ね、言葉という名の光を当てられる角度は変わっていきながらも、彼の念頭にあったのは、常に「ケルトの薄明」だった。それは、詩人自身がこの詩『ケルトの薄明』を自らの代表作であるともって任じていたことからも明らかである。


 けれども、繰り返すが、イェイツが羨望とともに歌った『薄明』の世界は、他のロマン派の詩人たちが歌ったような「神性」による「絶対的形式」ではなかった。といって、彼は、ニーチェ的な無神論・超人主義や、ユイスマンスが『さかしま』で讃美した人工楽園を志向したのでもなかった。
 後にイェイツはニーチェの著作を仏訳で読み、激しくその影響を受けた作品を書くことになるが、それとて単なる模倣に終わらず、彼自身が長年培ってきた精神的土壌から新たな滋養を汲み取るための起爆剤としてのものだったと言える。


 5行目に、"Your Eire is always young"とある。この"Eire"という具体的なものを示す単語が、イェイツが目指したものを読み解くための一つの鍵となる。
 "Eire"とは、トゥアハ・デ・ダナーンが統治していた時代以降のアイルランドのことを指している。トゥアハ・デ・ダナーンとは、「ダナの息子たち」の意であり、アイルランドにおけるケルト民族の神(いわゆる「ダーナ神族」)の名前であった。現にイェイツ自身、"Fairy and Folk Tales of the Irish Peasantry"(邦題:『ケルト妖精物語』、ちくま文庫所収)において、彼らが「もはや崇拝もされず、供物も捧げられなくなると、人々の頭の中で次第に小さくなっていって、今では身の丈がわずかに20、30センチほどになってしまったのだ」と書いている。


 ここで注意すべきことは、アイルランドで信仰されているキリスト教が、ケルトキリスト教と呼ばれる独自の形態をとっているということだ。
 ケルト人の土着宗教とキリスト教は、もともと「他界」の概念に代表されるような共通の面が多く、結果的にそれらが折衷されてケルトキリスト教が誕生することとなった。すなわち、"Eire"とは、トゥアハ・デ・ダナーンがキリスト教の侵入によって妖精に変えられてからの、「ケルトキリスト教的世界」を意味している。
 『薄明の中へ』が、キリスト教と背景を異にしながらも、単にそれに反発するのではなく、いわば中庸的とも言える雰囲気を漂わせているのは、まさにそのためだった。そして、イェイツは、「詩人は絶えず個人的人生について描く」と自ら語っているように、彼自身の"Eire"――それが彼の永遠の恋人であったモード・ゴンを象徴しているかは定かではないが――を"いつまでも若く"するべく努めることを自ら宣言したのである。


 「前期イェイツは夢に逃避し、後期イェイツは夢の世界から目覚め、現実へと向かった」と、ロイド・モリスはその著書、『ケルトの夜明け』で語った。表題の『ケルトの夜明け』ですでに一目瞭然であるが、彼は持論を語るにあたって、明らかにイェイツを意識している。すなわち、彼の言わんとしている「夜明け」は、夢から覚めて現実に向き合う「目覚めの」時間としての「夜明け」である。
 しかしながら、古代より、神秘主義あるいはロマン主義の伝統においては、「夜明け」(Dawn)という言葉は、さらに深い夢へと向かうための「暁の」時間を意味していた。いわば「まどろみの」時間と言うべきだろうか。


 すなわち、彼にとっての夢は単なる現実逃避ではなかった。「薄明」と「夜明け」の何たるかを彼は熟知していた。あくまで虚構として現実そのものを蔑視するのではなく、「まどろむ」ことによって、現実の、自己の、さらなる奥底に横たわるものを〈想起する〉ことこそが、彼の目的だった。これは社会的現実に疲れ果てた者の逃げ場所という枠には、到底くくることができない。
 優れた文学者が往々にしてそうであるように、イェイツが政治的であったということは、間違いない。社会的現実を熟知していたイェイツにとっての「まどろみ」とは、いわば"Eire"に至るための架け橋だった。そしてその"Eire"とは、彼の内面を現すと同時に、アイルランドの伝統的な精神世界、ひいてはアイルランドの社会的現実まで、詩性と思弁のうちに、一なるものとして綜合されていたといっても過言ではないだろう。彼が求める理想郷が、現実とは離れた場所に見えながらもどこか懐かしさを感じさせるのは、おそらくそのためではなかろうか。


 イェイツが得意とした技法の一つとして、「意味のずらし」があげられる。例えば、「炎」をとっても、彼はその意味を特定化させたがらない。これは、おそらく彼の背後にあるケルト的な「装飾的思考」のためだといっていいだろう。しかしながら、『薄明の中へ』においては、その「意味のずらし」はあまり顕著には見受けられない。これはすなわち、彼があまりにも純粋に"Eire"を希求したからと同時に、この文脈で語られる"Eire"そのものが、もはや「意味のずらし」を必要としないほど、多義的な構成を有していたからだといっていいだろう。


Modern Classics Selected Poetry (Penguin Modern Classics)

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