「スペキュレイティヴ・フィクション宣言」についてご紹介(その1)。

 さて、11月9日の文学フリマも刻一刻と近づいてきました。
 まったく売れないと寂しいのでB-15のブースで発売される〈幻視社〉第3号に掲載される拙稿「スペキュレイティヴ・フィクション宣言、あるいは〈石〉と〈結晶〉に関する試論」について、内容の紹介をさせていただきましょう。


 タイトル、単なるはったりではありません。
 現代において最も必要とされている文学の形式は、まさしくスペキュレイティヴ・フィションにほかならないと、私は確信しているからです。もちろん、商業媒体としてのスペキュレイティヴ・フィクションが風前の灯であり、文学史的なタームとしても用いられることは稀となっているうえ、少数の例外を除いては文学史上にて正しい評価が得られていないのは、重々承知のうえで言っています。


 いささか大仰な言い回しで恐縮ですが、私はアンドレ・ブルトンが両大戦間の狂騒のさなか「シュルレアリスム宣言」を記したときとまったく同じように、価値観の有為転変が激しい時代においてこそ、フィクションの未来を切り開くためのひとつの視座として――はったりめいて聞こえても、偏執狂的に思われようとも――スペキュレイティヴ・フィクションと美学の重要性を、ひとつ明確に「宣言」しておくことこそが必要ではないかと思っているのです。
 そうした場としては、文学フリマ以上のものは、なかなか望めないのではないでしょうか。


 「スペキュレイティヴ・フィクション」という言葉には通常、思弁小説という訳語が当てられます。思弁小説を大成させた立役者の一人として、J・G・バラードというイギリスの作家が挙げられます。
 1962年に彼は、『内宇宙への道はどちらか?』という革新的なエッセーを書きました。そこでは、従来の工学的な方面にのみ重きをおいたSF作品が批判され、「真にSFといえる最初の作品は、浜辺に寝転んでいる健忘症の男がさびた自転車の車輪を前にして、両者の関係の究極にある本質を見出そうとする、そんな話になるはずだ」と有名なマニフェストが語られます。
 バラードの提案に共鳴を覚えるか、反発を感じるのかはさておき、彼の発言に象徴されるような、「リアリズムあるいはパターナリズムに安住するのではなく、常にその先を求める姿勢」こそが、創作の、そして批評のシーンにおいては必要とされていることは言うまでもないでしょう。


 ですが、逆説的に言えば、現代こそ「その先」とか「新しさ」とか「ヴィジョン」が否定される時代もそうはないのではないかと私は思っています。おそらく私たちは、イデオロギーに信を置くことができません。イデオロギーの衰退の代わりに、例えばインターネット環境をはじめとした新たなメディアが多く生まれ、それによって文学は多様化してきました。
 だが一方で文学の多様化が、各々の小さな世界の棲み分けに終始し、領域を横断することはおろか、それらを包含した視座を持つことそのものが、極めて難しくなってきています。技術の発展は、思弁を深化させるのではなく、いわゆる「浸透と拡散」に繋がることで、むしろ生温く居心地のよい世界を多数生み出し、かえって人間性そのものを卑小化させているようにも見えてきます。


 私たちは、小説に何か「ヴィジョン」や「思想」が込められていても、それを人生論以上のものとして受け取ることができないでしょう。過去の時代を懐かしむためのよすがとするか、かえって眉唾ものに見えてしまうだけです。 言うまでもなく、それは仕方がないこと。「ヴィジョン」ではなく、うんざりするほどのリアリズムが、この時代を生きるにあたっては何よりも重要なのは当然であり、文学もまず、その現状から始めなければなりません。
 生半可な希望などは、うっちゃってしまえばよいのです。さもなければ、文学あるいは芸術は、人生論的なお説教に終わってしまうでしょう。
 はい、文学は終わりかけています(笑) いや、もう終わっているのかもしれません。

 
 しかし「ヴィジョン」の欠落が、なぜかそのまま文学の中身や、文学を享受するという経験を通じて惹起される美学的な感動へある種のローラーをかけようという動きに直結してしまっている。それが現在の状況であり、そうしたローラーによって失われるものは非常に多い、と私は思っています。もはや状況は文学というフレームと関係なく、面白いということ、ひいては価値という概念にすら疑問符を投げかけているのではないかと思えます。
 文学に触れ、それに何らかの意義があると思えることがあるとしたら、安易な「答え」の提示ではまったくなくて、私たちが抱えている問題についてさらなる思考のきっかけを与えてくれるようなヒントであり、同時に退屈な生に彩を添えてくれるだけの、いまだ名指すことのかなわない感興の提示にほかならないというのが、私の見解です。


 もちろんそれらは、簡単に言語化できる類のものではありませんが、読み手の心に深く突き刺さることで、生きていくうえでの原動力のひとつとして、長く生き続けることができるだけの効果を発揮することになります。
 それゆえ、あくまでも「ヴィジョン」は否定されなければならないものの、かつて「ヴィジョン」を駆動させようとした原初的なエネルギー、あるいは美学的な原理のようなものが、同時に失われてしまうような事態はなんとしても避けなければなりません。
 原初的なエネルギー、あるいは美学的な原理を活かしたまま、絶えずそれらに批判的な検討を続けて行くことで、文学の、ひいては芸術全般の反復=更新を考えていく必要があるでしょう。


 棲み分けが存在することは、事実です。しかしながら書き手の意識はそのような小さな領域に安住するのではなく、多様化するメディアを呑み込み、そこから渾沌たる何かを可能性の端緒として吐き出さなければなりません。
 かつてバルザックは「人間喜劇」という連作小説にて、自分が生きた同時代の社会全体の姿を作品内に書きとめようとしました。20世紀前半にヘルマン・ブロッホは、『夢遊の人々』にて、同時代の精神性を、あますところなく小説内に取り込もうとしました。
 むろん私たちは、バルザックのようにも、ブロッホのようにも書くことはできません。
 ですが、何かしらできることはあるはずです。今回私が〈幻視社〉の3号に書いた批評文の根底には、そうした問題意識が横たわっています。そしてそれは同時に、〈科学魔界〉の50号へ寄せた批評文にも、相通じる問題系でもあるのです。


(つづく)