藤枝静男『悲しいだけ』


 藤枝静男の『悲しいだけ』を読む。
 それまで講談社文芸文庫に入っていた『田紳有楽/空気頭』しか触れたことがなかったが、文庫版ではなく、単行本版の方で読んでみた。


 老熟期に書かれた短編8編。30年以上連れ添ってきた妻が発した「わたしはこのお墓の下に入るのはいやです」という衝撃的なひとこと、その後の妻の死を核としている。
 藤枝静男は晩年、アルツハイマーを患ってかなり悲惨なこととなったようだが(そうした悲劇的状況は、『空気頭』を読んだ身には、昏い笑いをもたらすものだが)、その兆候は本書の一部からも窺える。
 

 藤枝静男はそれこそ「私小説」の最高峰と静かに称えられる作家であり、現に蓮實重彦の『「私小説」を読む』でも安岡章太郎などと並べて語られていたのだが、かような評価を抜きにしても、単行本のフォント(写植ではなく、文字に凹凸がある形)でこうした、「読み飛ばせない」話をじっくり噛み砕いていくと、えも言われぬ味わいがある。


 私小説というのは、抑制が必要なジャンルなのではないかと思っている。つまり、〈私〉を語ろうとすると、〈私〉というのはとらえどころがないものであるがゆえに、だらだらと牛の涎のごとく冗長なものとなっていく。ところが、〈私〉を、(いくら現代社会における〈私〉の位置づけが困難になっているからといって)仮想人格、あるいはネット人格(=アバター)としての〈私〉をでっちあげて全能感に浸るという安易な方法を経由することなく、いつの世も変わらぬ「人間」としての〈私〉を提示するという作業には、地道で、かつ構築的な作業が必要になるのだと思う。


 もっとも、藤枝静男はたまに羽目を外し、グイ呑みの遍歴を語った『田紳有楽』のように、奔放なSF的想像力を働かせることもある。
 が、基本、離れ業は見せない。『悲しいだけ』の最後に収められている「半僧坊」のように、淡々と憧れを語るだけである。構築的な作業と言っても、壮大なバベルの塔を築き上げるのではなく、あくまでも、不動の、小さな「石」のような凝集性を志向していくわけである(実際、「石」のイメージは随所に頻出する)。


 表題作である『悲しいだけ』の最後は、以下のように括られるが、

 私の頭のなかの行くてに大きい山のようなものの姿がある。その形は、思い浮かべるどころか想像することも不可能である。何だかわからないしかし自分が少しずつでも進歩して或るところまで来たとき、自分の窮極の行く手にその山が現われてくるだろう、何があるのだろう、わからないと思っているのである。今は悲しいだけである。


 こうした「山のようなものの姿」を、カフカの『城』のごとき、宗教的な不可能性(あるいは否定性)の象徴のごとく理解するのは、端的に言って物足りない気がする。
 「悲しいだけ」という感覚が、不動の石のごとく硬直し、動かないまま留まっている。幾万年もの月日が流れ、こうした石に苔が蒸し、同じような石が入り混じっていつか山となること。そのような、どちらかと言えば仏教的なスケールの大きさを孕んだ「凝集性の果てにある無常観」として、藤枝作品の志向は理解すべきではないかと思わされた。『田紳有楽』で繰り返し語られる〈山川草木悉皆成仏〉の世界である。やや抹香臭いが、それでも面白くはある。
 少なくとも、〈私〉とは何かを考えるうえでは、避けて通れないだろう。

悲しいだけ (1979年)

悲しいだけ (1979年)